財政支出の高止まりが宋を引きずり回し、インフレを弄んだことで宋は自滅した。さらに、宋の経済政策は開明的ではなく、唐と比べて見劣りし、民間経済の繁栄は経済法則の必然であり、政策とはほとんど関係なかった。まず北宋から。...
文相公は天下の為に死に、文脈を守る為に死んだ。あんたは文相公が死に赴いたのを「名声を求めた」「平時は袖手旁観して心性論ばかり語り、いざ危機に陥ると一死をもって君主に報いた」と思ってるだろう?実際は文相公は龍脳を常に携帯し、死を覚悟していた。敗戦後、彼は何度も紫砂(自殺未遂)を試み逃亡したが成功しなかった。...
五代十国時代から這い上がった中年皇帝(34歳、そろそろ後継者を考えねばならない年齢だ。五代の君主の平均寿命は44歳、平均在位期間は4年だった)として、趙匡胤が皇帝に即位した時、趙家には「万が一自分がぽっくり逝った場合」に備えるための有力なナンバー2がどうしても必要だった。そうでなければ、他の軍閥に一族皆殺しにされるのは目に見えていた。弟の趙光義は22歳、末弟の趙廷美は14歳、長男の趙徳昭は10歳、次男の趙徳芳は2歳——趙匡胤に選択の余地などなかった。...
やっぱり趙構ってのは実に偉大だったんだよ。文字通り狂瀾を支え止めた一代の君主さ。南宋のボロボロ状態は、南明よりもずっと悲惨なスタートだったんだからな。南明に趙構みたいな皇子がいたら、各軍閥をまとめて内紛を抑え、一致団結して外敵に対抗できたはず。半壁の江山は守れたし、夷狄の悪臭が中華全土を267年も覆うことなんてなかったのにさ。...
北宋は急死したようなもので、もし徽宗が2年早く亡くなっていたら、政和・宣和年間は完全な盛世だったと言えるでしょう。徽宗が即位すると蔡京を宰相に起用し、元祐旧党を全て左遷して新党メンバーを登用。王安石の熙豊新法を完全復活させました。延和殿で賜座した際、徽宗は「神宗が法を創り制度を立て、先帝が継承したが二度も変更され、国是が定まらない。...
南宋初年の抗金活動は北宋末期の抗金闘争の延長線上に位置づけられる。このことが南宋前期の正統性を強く支えていた。しかしその正当性は急速に失墜していった。辛棄疾を例に考えてみよう。辛棄疾は1140年生まれ、1207年没。南宋建国(1127年)から13年後、南宋滅亡(1279年)の72年前、臨安陥落(1276年)の69年前にこの世を去っている。享年67歳。...
最近『資治通鑑』や『続資治通鑑長編』を読んでいて、昔の固定観念が覆されたよ。昔は「宋が歩兵中心で契丹の騎兵に勝てなかった」「文治主義で武を軽んじた」「幽雲十六州の防衛線を失ったから」って単純に思ってたんだけど。実は後唐時代の中原王朝と契丹の戦いって、宋初期の戦績と大差ないんだよね。...
宋太宗は毒薬の達人だった。皇帝になる前から薬の処方を研究し、数千種類の医薬単方集を収集していた。南唐の後主李煜らを毒殺した「牽機薬」は、服用すると全身が痙攣してエビのように丸まりながら死ぬ。後の研究でこれはマチン(馬錢子)の主成分ストリキニーネとブルシンによる中枢神経破壊作用と判明。...
宋が弱かったわけじゃなくて、状況が複雑すぎたんだ。客観的に見れば、宋王朝は建国後44年間は決して弱くなかった。燕雲十六州を失ってから、中原全体が異民族の刃に晒されることになった。...
宋代に対して、中外の歴史学者は惜しみない賛辞を捧げている。例えば陳寅恪は「華夏民族の文化は数千年来の進化を経て、趙宋の時代に頂点を極めた」と述べ、鄧広銘は「宋代の物質文明と精神文明が到達した高さは、中国封建社会全体の歴史を通じて空前絶後と言える」と評した。ジョゼフ・ニーダムは「科学技術史において唐代は宋代に及ばない。宋代に至って中国の科学技術は頂点に達し、多くの分野で18世紀半ばの産業革命前のイギリスやヨーロッパの水準を実際に凌駕していた」との見解を示している。...
宋江について言えば、実に複雑な人物である。この男は色黒で背が低く、やや肥満気味の風貌を持ち、四大名著の中でも最も好まれない外見の一つだが、決して「天撅星(悪運の星)」のような存在ではない。血の通った人物像を描く中で、歴代の宋江演じる者の中で最も深く人心に刻まれたのは、個人的には鮑国安先生の演技だと考える。もちろん、詔安(朝廷への帰順)という決断には利害が伴い、これが宋江が非難される根本的な原因となった。...
岳飛、この名前を聞くと誰もが「忠誠を尽くして国に報いる」という四文字を思い浮かべ、金軍を幾度も打ち破り勇猛に戦った英雄像を想起する。しかし歴史における岳飛の運命は、深く考えるに値する悲劇であった。岳飛は鉄の如き意志と忠誠心で人々の記憶に深く刻まれているが、その熱い血潮は結局趙構の猜疑心と干渉によって覆い隠され、英雄の潜在能力は完全に発揮されず、運命は大きく転換してしまった。...