宋武帝劉裕はあれほど強悍で、洛陽も長安も陥落させたのに、なぜ天下統一を果たせなかったのか?
劉裕の敗因は「遅すぎた」ことに尽きる。この「遅さ」は多方面にわたっている。第一に「権勢を得るのが遅すぎた」。劉裕が挙兵したのは40歳。当時40歳といえば死を目前にした年齢で、下層から這い上がった劉裕のような人物だけでなく、公卿貴族ですら50年前後が寿命だった。高齢での挙兵はリスクが大きすぎた。第二に「北伐のタイミングが遅すぎた」。
劉裕の敗因は「遅すぎた」ことに尽きる。この「遅さ」は多方面にわたっている。
第一に「権勢を得るのが遅すぎた」。劉裕が挙兵したのは40歳。当時40歳といえば死を目前にした年齢で、下層から這い上がった劉裕のような人物だけでなく、公卿貴族ですら50年前後が寿命だった。高齢での挙兵はリスクが大きすぎた。
第二に「北伐のタイミングが遅すぎた」。劉裕が北伐した頃の北方は北魏が他国を圧倒していた。もし諸国並立期や北魏道武帝晩年の内乱期に北伐していれば状況は違ったかもしれない。だが実際の北伐時、北魏は国力を充実させており、南燕討伐や後秦攻略では成功したものの、北魏との小競り合いで優位に立てず、本格戦争になれば河北の地形と両軍の構成から勝敗は予測不能だった。
第三に「後継者誕生が遅すぎた」。劉義符が生まれた406年、劉裕は42-43歳で既に権力を掌握していた。北伐終了時、義符は12歳で権力継承が不可能な年齢。このため劉裕は急いで帝位簒奪を進めねばならず、417年に劉穆之が没すると後方を託せる人物がいないため撤退を余儀なくされた。12歳の劉義真を関中に残したことも裏目に出て内乱を招き、後継者問題は劉宋の不安定要因となった。
劉裕の人生は「時間との戦い」だった。権臣排除・内部抗争鎮圧・国内統治・北伐・後継者育成・帝位簒奪という巨大プロジェクトを20年弱で成し遂げねばならず、そのプレッシャーは想像を絶する。もし10年長生きしていたら中国統一を果たしていたかもしれないが、最後の北伐計画も病に倒れ実現しなかった。
崔浩の指摘する胡漢問題については、劉裕が直面する段階に至らなかった事実が重要だ。河北・関中を支配せず、青州河南地域でも40年統治を維持した劉宋にとって、この問題は未経験の領域だった。北朝が苦しんだ胡漢矛盾に直面するには、まず胡夏や北魏を滅ぼす必要があり、劉裕にはその機会が訪れなかった。
【劉裕のタイミングに関するデータ比較表】
項目 |
劉裕の状況 |
理想的な状況 |
時間差 |
---|---|---|---|
挙兵年齢 |
40歳(399年) |
30歳前後 |
10年 |
第一次北伐時期 |
409年(南燕討伐) |
北魏道武帝没後の409年以前 |
2-3年 |
後継者誕生 |
劉義符406年生(北伐時12歳) |
挙兵時に既に10歳程度の後継者 |
10年 |
関中支配期間 |
417-418年(約1年) |
最低5年の定着期間が必要 |
4年 |
帝位簒奪時期 |
420年(56歳) |
北伐成功直後の417年 |
3年 |
最終北伐計画 |
422年(病死で未実施) |
420年時点での即時実行が必要 |
2年 |
【年表で見る劉裕の時間的制約】
399年:挙兵(40歳)
404年:桓玄打倒(45歳)
409-410年:第一次北伐(南燕討伐)
416-417年:第二次北伐(後秦滅亡)
418年:関中喪失
420年:宋建国(56歳)
422年:北伐計画途中で病死(58歳)
このデータが示すように、各段階で2-10年のタイムラグが生じており、特に50代に入ってからの急速な権力掌握が後継者育成の時間的余裕を奪ったことがわかる。当時の平均寿命(貴族層で45-50歳)を考慮すると、劉裕が直面した時間的制約は現代の感覚以上に深刻だったと言えるだろう。