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華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

牧野の戦いにおける周軍の兵力数については問題ないはずです。兵車300乗、虎贲(精鋭兵)3,000人、甲士(武装兵)4万5,000人、合計で約5万人という数字が記録されています。この兵力数は西周初期と商(殷)晩期の諸侯国における兵力規模とも整合します。西周初期に確立された「周六師」は周人で構成され、周礼では1師2,500人と規定されているため、6師で1万5,000人となります。虎贲3,000人については、東周時代に周王が晋の文公に300人の虎贲を下賜した記録が傍証となります。...

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ウソ。大多数の漢人は故郷に残り、塢壁(自衛用の城塞)を築いて自らを守った。小さな塢壁には数千人、大きな塢壁だと数万人規模になった。彼らは自分の土地を守るため、誰が攻めてきても命懸けで抵抗したんだ。実は大量の漢人が残ったからこそ、五胡との間で「胡人が兵士、漢人が農民」という分業協定が成立した。...

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劉裕の敗因は「遅すぎた」ことに尽きる。この「遅さ」は多方面にわたっている。第一に「権勢を得るのが遅すぎた」。劉裕が挙兵したのは40歳。当時40歳といえば死を目前にした年齢で、下層から這い上がった劉裕のような人物だけでなく、公卿貴族ですら50年前後が寿命だった。高齢での挙兵はリスクが大きすぎた。第二に「北伐のタイミングが遅すぎた」。...

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甲骨文には「西邑」という記載があり、蔡哲茂氏が『夏王朝新証』で指摘したように、武丁時代の甲骨卜辞において「西邑」が繰り返し祭祀対象として登場し、時に王に災いをもたらすため定期的に「僚祭」を行う必要があったとされる。『尹吉』に「惟尹躬天、西邑夏に見え、周より終わり有り、相も亦惟終わり有り」との記述があることから、甲骨文の「西邑」は夏王朝を指すと結論付けている。...

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