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朱元璋の軍事能力をどのように評価するか?

中国皇帝の能力トップ3は基本的に劉邦、李世民、朱元璋の組み合わせで決まる。建国というのは叙事詩級のミッションで、血の海から這い上がってきたものだ。大いなる能力と大いなる運がなければ天下統一などできるはずがない。劉邦の軍事能力はやや劣り、韓信からは「10万の兵を率いる将軍」と評された。

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中国皇帝の能力トップ3は基本的に劉邦、李世民、朱元璋の組み合わせで決まる。

建国というのは叙事詩級のミッションで、血の海から這い上がってきたものだ。大いなる能力と大いなる運がなければ天下統一などできるはずがない。

劉邦の軍事能力はやや劣り、韓信からは「10万の兵を率いる将軍」と評された。正直名将クラスで、三国志の曹操、孫策、劉備が束になっても劉邦には敵わない。ただ同時代に超一流の軍事家が二人も現れたのが不運だった:覇王項羽と兵仙韓信。

鐙のない時代には重装騎兵は存在しない。軽装騎兵が正面から歩兵部隊に突撃すれば全滅必至だ。項羽がどうやって騎兵で戦場を無双したかは歴史の詳細が失われて分からない。とにかく李世民より強かったのは確かで、李世民の時代には重装突撃騎兵が完成していた。3千の玄甲軍が竇建徳の10万軍に正面突破をかけた例がある。

韓信は別次元の強さで、現代の通信設備なしに「多多益善」を実践した。人数が増えれば管理難度が指数関数的に上昇するのは常識だ。郭帆が『流浪地球2』を撮影した際、数千人のスタッフの食事順番待ちが最大の問題になったという。だから名将は選鋒を行い、軍中から数千人を選んで核心部隊を作る。

軍隊の強さは組織力で決まる。無組織無規律の軍隊なら、倭寇数人でも数千の明軍を追い回せた。戚継光が戚家軍を訓練し鴛鴦陣を編み出すと、数十対1という異常な戦損比を記録した。つまり戦略の要は陣形突破であり、指揮中枢を破壊すれば軍はたちまち烏合の衆となる。

猛将の最高評価は「万人敵」。一人で千軍万馬を突破する能力だ。韓信の異常な点は「選鋒」を必要とせず、水を流すように戦ったこと。「自軍の強さは不要。敵を弱体化させればよい」という発想で、韓信の敵は不可解な戦場に引きずり込まれ不可解な敗北を喫した。「戦術を弄ぶ者の心は汚い」

韓信と項羽の唯一の直接対決が垓下の戦い。劉邦が全財産を賭け、韓信が劉邦・彭越・英布の連合軍を指揮して項羽を包囲した。真の強さは未だに謎だ。

ではなぜ軍事力の劣る劉邦が最終勝利者となれたか?政治力の差だ。端的に言えば劉邦は単独の存在ではなく、常に蕭何とセットで分析する必要がある。蕭何の後方支援がなければ、100人の劉邦でも項羽に瞬殺されていただろう。

蕭何は単なる補給係ではない。秦の体制を継承した官僚集団を代表していた。楚漢戦争は秦式軍功爵+官僚制度 vs 六国封建貴族分封制の戦いでもあった。

戦争は最終的に補給力で決まる。より多くの兵員を動員し、より多くの食糧を徴収し、より多くの兵器を生産できる側が不敗となる。劉邦は何度でもやり直せたが、項羽は一度の敗北で終わった。

ある回答で「蕭何が丞相府の文書を奪取したことが決定的」とコメントしたら、「なら国家公文書館を奪えば天下無敵か?」と反論された。張良を逮捕できなかった例を挙げられたが、返答する気も失せたのでここに記す。

世間には人事記録しか頭にない人がいる。しかも人事記録を軽視している。例えれば、張三李四が面接に来た時、最初に必要なのは何か?履歴書の確認だ。筆記試験や面接だけでは不十分で、人事記録を照合するのが最確実。蕭何が丞相府の文書を掌握したということは、全国の県令以上の官吏情報を掌握したことを意味する。

さらに重要な戸籍データ。地域ごとの人口・食糧量・動員可能兵力・輸送能力といった国家中枢の機密、そして地形図。地図がなければ数万の兵を野遊びに連れて行くようなものだ。荊軻が始皇帝に謁見できたのはなぜか?燕国の地図を持参したからだ。

人事・戸籍・国土情報を掌握した蕭何は、秦の官僚システムを完全に運用可能にした。

軍事と政治は不可分だ。軍事は政治目的を達成する手段に過ぎない。政治の核心は味方を増やすことにあり、劉邦は「金・権力・女・名声」を惜しみなく分配した。蕭何が財政を管理することで、劉邦の約束は常に実現した。

項羽は項家のNo.1戦闘員に過ぎず、兵站は全て項家が握っていた。勢力は常に両天秤をかけ、劉邦と項羽のどちらが勝ちそうかを見極めていた。一方韓信は完全な裸の司令官だった。

劉邦は「プロデューサー」として人的・物的資源を組織化する能力に長け、項羽は「経営者」の自覚なく全て自分で処理しようとした。韓信はプロのマネージャーと言える。

軍事能力は前線業務であり、後方支援が必要だ。前線と後方の調整が指導者の責務である。関羽が前線で奮戦する一方で、後方の糜芳と関係悪化した例が示すように、劉備が調停役を失ったことが敗因となった。

指導部の和がなければ全てが無駄になる。兵站基地が根本であり、兵員・食糧・輸送は全て民衆の負担だ。略奪で敵を増やすより、生産力を高める方が重要。最終決戦は軍事力で決まるが、その前に全てが整っていなければならない。

朱元璋の軍事能力は天才級ではないが、ゼロからのスタートで独自のシステムを構築した点が特筆される。元末は秦の行政システムも隋の蓄財も継承できず、完全な新規立ち上げだった。

朱元璋の統一期間が長く最も安定した理由はここにある。劉邦には異姓王や外戚の問題が残り、李世民には前朝の遺老を処理する必要があったが、朱元璋は文字通り「一人の天下」を実現した。

兵は自ら募集し、将は自ら選び、基地は自ら経営した。建国後すぐに領土拡張せず、土地測量・移民奨励・戸籍整備・法典制定に着手。元末の混乱を完全に一新し、国家システムを再構築した。明初に功臣集団など存在せず、全て「功犬」だった。犬を処分するのに飼い主の気持ちなど考慮する必要があるか?

後継者選択でも違いが顕著。劉邦は呂后・蕭何・張良の連合に阻まれ太子廃立を断念し、李世民は李承乾と李泰を廃嫡せざるを得なかった。一方朱元璋の太子朱標は安定し過ぎて、朱元璋が棍棒を振りかざしても臣下は「陛下が怒りすぎないよう願うだけ」だった。
劉邦と劉盈は姓以外に関係なく、呂后の政治的影響力がなければ劉盈は追放されていた。李世民は「聖君」を演じたが、皇権を脅かす者は容赦なく排除した。

朱元璋に至っては「天下は我にとって何の価値か?」という境地。皇帝も農民も単なる職業に過ぎず、官僚階級は「作物を盗む賊」と見なした。「やる気がなければ代わりはいくらでもいる」が信条だった。

朱元璋が孫を後継者に指名した時、誰も反対しなかった。天下の臣民が畑の作物のように黙り込むのを見て、老農朱元璋は笑いながら反抗者を刈り取っていった。

最強の猛者も運命には勝てなかった。少年期に父を、中年に妻を、晩年に息子を失い、孤独のまま逝った。

軍事面で朱元璋に特筆すべきは鄱陽湖の戦いくらい。陳友諒を火攻めで殲滅した後は、地道に準備を整え背後から一撃を加えるパターンを繰り返した。地味だが確実に南北を統一し、胡族を駆逐して中華を復興させた。

朱元璋を評価するなら「勤勉さも才能」と言うべきだ。一歩一歩階段を上る姿は、かえって恐ろしいほどの迫力がある。

朱元璋を隋末に置けば成長の機会なく、李世民を元末に置けば活躍の土壌がない。仮に両者が直接対決すれば、李世民が優勢だろう。しかし長期戦になれば朱元璋の体力勝ちとなるだろう。「生き残りこそ勝利」だからだ。

表:三大皇帝比較

 

項目

劉邦

李世民

朱元璋

統治期間

紀元前202-195年(7年)

626-649年(23年)

1368-1398年(30年)

主要戦役

垓下の戦い(40万vs10万)

虎牢関の戦い(3千玄甲軍で10万撃破)

鄱陽湖の戦い(20万vs60万)

軍事スタイル

資源集中型

精鋭突撃型

システム構築型

後方担当

蕭何

房玄齢・杜如晦

自立運営

国土面積

400万km²

1,240万km²

1,000万km²

戸籍管理

秦制継承

隋制改良

独自に再構築

後継者問題

外戚干渉

皇子抗争

完全掌握

平均年貢収取量

1,200万石

2,500万石

3,200万石

特異点

史上初の平民皇帝

帝王学の完成者

システム再構築者


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