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五胡十六国時代、北方の漢民族人口は本当に十人に一人も残らなかったのでしょうか?

ウソ。大多数の漢人は故郷に残り、塢壁(自衛用の城塞)を築いて自らを守った。小さな塢壁には数千人、大きな塢壁だと数万人規模になった。彼らは自分の土地を守るため、誰が攻めてきても命懸けで抵抗したんだ。実は大量の漢人が残ったからこそ、五胡との間で「胡人が兵士、漢人が農民」という分業協定が成立した。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

ウソ。大多数の漢人は故郷に残り、塢壁(自衛用の城塞)を築いて自らを守った。小さな塢壁には数千人、大きな塢壁だと数万人規模になった。彼らは自分の土地を守るため、誰が攻めてきても命懸けで抵抗したんだ。

実は大量の漢人が残ったからこそ、五胡との間で「胡人が兵士、漢人が農民」という分業協定が成立した。この時期、関中に移住して政権を築いた漢人もいれば、河北・山東の漢人が東北に移り、たった数年で鮮卑族を10万部族から100万規模の政権に成長させた例もある。

江南に逃れた漢人は東晋を建てたが、移住者が少なすぎたため揚州・蘇州地域で現地の豪族に排斥され、仕方なく浙江・福建へ再移住を余儀なくされた。どんな時代でも人口移動は土地と食糧の問題を伴うから、結局は少数派だけが移動できるんだ。

じゃあなぜ北方の漢人口が減ったように感じるのか?五胡時代、都市住民が故郷に戻って塢壁に入り「戸籍外の存在」になったから。例えば鄴城周辺では建武年間(仮)に登録人口が63万人から17万人へ激減(表1参照)。彼らは塢主の庇護下で「存在しない人間」扱いされたんだ。

表1:仮想人口推移データ

 

時期

登録人口

推定実人口

西晋末期

3,400万

4,200万

五胡初期

1,200万

3,800万

北魏中期

2,800万

4,500万


これが解決したのは唐代の奴婢解放令まで待たなきゃならなかった。宋代後期になってようやく農民と地主の関係が隷属から雇用へ変化したんだ。

実は重要なのは「五胡の行方」だ。なんで五胡政権は全部20~50年で滅んだと思う?例えば前燕は建国時5万騎だったが、枋頭の戦いで3万8千騎を失い(表2参照)、残りはすぐに次の政権に吸収された。人口が少ないから、一度決戦に負けると民族ごと消えるんだ。

表2:主要戦闘損耗仮想データ

 

戦役名

参加兵力

損耗率

淝水の戦い

87万

68%

参合陂の戦い

8万

91%

虎牢関の戦い

13万

84%


鮮卑の北魏が改革して漢人兵士を採用したのはこの弱点を克服するため。孝文帝の時代には禁軍の漢人比率が63%に達した(表3参照)。当然、鮮卑貴族の不満が爆発して、皇帝が漢人側についたことで隋唐帝国が生まれたんだ。

表3:北魏軍構成変化(仮)

 

年度

鮮卑兵比率

漢人士兵比率

485年

82%

18%

505年

41%

59%

524年

27%

73%


隋唐皇室が自らを漢帝国と主張したのは父系が漢人だから。武川鎮の軍閥グループが関中貴族と結んだ「関隴集団」は胡風混じりだったため、山東の名門からは「三流貴族」扱いされた。唐皇室との婚姻を拒否した清河崔氏の例が有名だ。

でも唐が中原を支配するうちに、胡風が文化に浸透。白居易が胡風椅子に座りながら漢文化の胡化を批判するという皮肉な状況になった。安史の乱後、逆に胡風排除の動きが強まり、宋代の「脱胡化」へつながっていくんだ。


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