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華夏の歴史鏡鑑

滾々たる長江の水は東へと流れ去り,波頭は英雄を洗い尽くす。
是も非も成敗も、振り返れば虚しき,青山はなおも在り、幾度か夕陽紅なり。
白髪の漁夫と樵夫、渚に立ち,秋の月、春の風、見慣れたる。
一壷の濁り酒、喜びて相逢う,古今の数多の事、全て笑い話に付す。

牧野の戦いで殷王朝が急遽70万の大軍を召集したというが、当時の都・朝歌城に百万の人口は本当に可能だったのか?

牧野の戦いにおける周軍の兵力数については問題ないはずです。兵車300乗、虎贲(精鋭兵)3,000人、甲士(武装兵)4万5,000人、合計で約5万人という数字が記録されています。この兵力数は西周初期と商(殷)晩期の諸侯国における兵力規模とも整合します。西周初期に確立された「周六師」は周人で構成され、周礼では1師2,500人と規定されているため、6師で1万5,000人となります。虎贲3,000人については、東周時代に周王が晋の文公に300人の虎贲を下賜した記録が傍証となります。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

牧野の戦いにおける周軍の兵力数については問題ないはずです。兵車300乗、虎贲(精鋭兵)3,000人、甲士(武装兵)4万5,000人、合計で約5万人という数字が記録されています。

この兵力数は西周初期と商(殷)晩期の諸侯国における兵力規模とも整合します。西周初期に確立された「周六師」は周人で構成され、周礼では1師2,500人と規定されているため、6師で1万5,000人となります。虎贲3,000人については、東周時代に周王が晋の文公に300人の虎贲を下賜した記録が傍証となります。東周の周王がこれだけの数を提供できたなら、西周初期に3,000人を擁していたのは現実的な数字と言えるでしょう。

牧野の戦いに参加した「牧誓八国」はいずれも商末期の大規模な諸侯国でした。甲骨文字に残る婦好(武丁の妃)が自らの族軍3,000人を動員した記録から推測すると、当時の大諸侯国は最低3,000人の兵力を動員可能だったと考えられます。したがって牧誓八国から3万人の兵力が加わったという推定は妥当です。

周軍構成

 

周軍構成

数量

根拠

兵車

300乗

史書記載

虎贲

3,000人

晋文公への下賜記録を推定

甲士

45,000人

周六師+諸侯兵力の合算

総兵力

約50,000人

各要素の積算


これに対し商軍の「70万」という数字は明らかに誇張された表現です。甲骨文の記録では商の常備軍は「王作三師」とされ、1師の規模は3,000~10,000人と推定されるため、3師で9,000~30,000人程度。甲骨文に記録された出兵人数は通常3,000~5,000人、最大でも13,000人に留まります。

商軍関連データ

 

商軍関連データ

数値

根拠

常備軍規模

9,000~30,000人

甲骨文「三師」推定

最大出兵記録

13,000人

甲骨文記載

殷墟人口

15~30万人

考古学推定

王畿総人口

300~500万人

文献推定


殷墟の人口推計が15~30万人、商王畿全体でも最大500万人程度とされる状況で、70万の兵力動員は物理的に不可能です。「七十万は十七万の誤記」とする説もありますが、前述の根拠からしても過大評価と言わざるを得ません。

個人的には商軍の実数は約7万前後だったと考えています。この数値であれば甲骨文の記録とも矛盾せず、人口規模とも整合します。『史記』が70万と記したのは、戦国時代から漢代にかけて「1を4~10倍に表現する」軍勢誇張の習慣(例:燕軍15万を60万と称した事例)に由来するものでしょう。数字の膨張表現は当時の戦記録における典型的な修辞手法だったと考えられます。


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