范仲淹と欧陽修は盟友だったのに、なぜその息子は父の盟友を罵倒し、殺害を提議したのか?
范仲淹と欧陽修は18歳の年齢差があったが、非常に深い友情で結ばれていた。政治上では、欧陽修は范仲淹の改革を積極的に支持し、自らの政治的将来を顧みず、頑固な保守派官僚を非難するために再三にわたって正義を訴えた。しかし欧陽修が参知政事に就任すると、范仲淹の息子からの攻撃を受けることになる。その人物は欧陽修を「豺狼(山犬)」と罵倒するだけでなく、彼を誅殺するよう要求した。この出来事はいったいどのような経緯で起こったのだろうか。1036年、権知開封府として活動していた范仲淹は宰相呂夷簡と激しく対立し、罷免されて饒
范仲淹と欧陽修は18歳の年齢差があったが、非常に深い友情で結ばれていた。政治上では、欧陽修は范仲淹の改革を積極的に支持し、自らの政治的将来を顧みず、頑固な保守派官僚を非難するために再三にわたって正義を訴えた。しかし欧陽修が参知政事に就任すると、范仲淹の息子からの攻撃を受けることになる。その人物は欧陽修を「豺狼(山犬)」と罵倒するだけでなく、彼を誅殺するよう要求した。この出来事はいったいどのような経緯で起こったのだろうか。
1036年、権知開封府として活動していた范仲淹は宰相呂夷簡と激しく対立し、罷免されて饒州知事に左遷された。朝廷の諫官たちが次々と范仲淹の赦免を求める中、右司諫高若讷だけが彼の左遷が当然だと主張した。これに激怒した欧陽修は『高司諫への書簡』を執筆し、高若讷を「もはや人間の恥を知らぬ」と非難した。結果として欧陽修は夷陵令に左遷されたが、彼は後悔しなかった。数年後、再び范仲淹のために発言して左遷されることになるからである。
1045年の「慶暦の新政」失敗後、范仲淹らが相次いで地方へ左遷された際、河北都転運使を務めていた欧陽修は朝廷に「自らを弾劾し罷免を求める」上奏文を提出するとともに、『杜衍・范仲淹ら政事罷免に関する上奏文』を提出して改革派を擁護した。予想通り欧陽修は知制誥・滁州知事に左遷され、この時期に名作『酔翁亭記』を著している。
主要事件データ表
西暦 |
事件内容 |
関連人物 |
結果 |
---|---|---|---|
1036年 |
開封府権知事時代の対立 |
范仲淹 vs 呂夷簡 |
范仲淹が饒州知事に左遷 |
1036年 |
高若讷批判の書簡作成 |
欧陽修 vs 高若讷 |
欧陽修が夷陵令に左遷 |
1045年 |
慶暦新政失敗後の上奏活動 |
欧陽修・杜衍・范仲淹 |
欧陽修が滁州知事に左遷 |
1052年 |
范仲淹逝去 |
范純仁(息子) |
神道碑文作成依頼発生 |
1060年 |
濮議論争 |
欧陽修 vs 范純仁 |
范純仁ら3人が地方左遷 |
1052年、范仲淹が潁州知事に転任中に病死した。当時母の喪に服していた欧陽修はこの訃報に深く悲しむと同時に、范仲淹の息子范純仁から神道碑文作成の依頼を受けた。北宋随一の文学者・歴史家として数多くの墓誌銘を手掛けてきた欧陽修は、朝廷の記録を再三参照しながら2年がかりで碑文を完成させた。しかし完成した碑文は友人富弼さえ受け入れず、范一族すら范仲淹と呂夷簡の和解に関する記述を削除した。欧陽修は激怒し「この碑文は私の作ではない」とまで発言している。
1060年、欧陽修は枢密副使に昇進し、翌年8月には戸部侍郎・参知政事として朝廷の重鎮となった。仁宗崩御後も英宗に重用されたが、ここで「濮議」問題が発生。英宗が実父である濮王趙允譲を「皇考」と称するべきか否かを巡り、朝廷が真っ二つに割れる中、欧陽修は韓琦らと共に「皇考」称を主張した。これに対し范純仁・呂誨・呂大防の三者連盟が「豺狼」「奸邪」「典刑に赦さず人神共に棄つ」との激烈な弾劾文を提出。欧陽修も「我々か彼らかを選べ」と英宗に迫り、結局范純仁ら3人が地方左遷となった。政治的意見の相違とはいえ、父世代の友情はここに完全に消滅したと言える。