永楽帝はなぜ名臣・方孝孺の十族を誅殺したのか?
1380年4月16日:燕王朱棣が北平に藩邸を構える。朱棣が最も憎悪した方孝孺に関する「九族誅滅」という事実は存在せず、まして「十族誅滅」などさらにありえない。方孝孺は建文帝の側近謀臣であり、強硬な藩鎮削除派であった。朱棣は「方孝孺が建文帝を煽動しなければ、甥の皇帝は自分に手を下さなかったかもしれない」と考えていた。本来なら燕王としての地位を満喫できたはずが、反逆という汚名を着る結果となった。
1380年4月16日:燕王朱棣が北平に藩邸を構える。朱棣が最も憎悪した方孝孺に関する「九族誅滅」という事実は存在せず、まして「十族誅滅」などさらにありえない。方孝孺は建文帝の側近謀臣であり、強硬な藩鎮削除派であった。朱棣は「方孝孺が建文帝を煽動しなければ、甥の皇帝は自分に手を下さなかったかもしれない」と考えていた。本来なら燕王としての地位を満喫できたはずが、反逆という汚名を着る結果となった。
表1:主要人物関係と役職
人物 |
役職 |
年齢(1402年時点) |
政治的立場 |
---|---|---|---|
方孝孺 |
翰林学士 |
45歳 |
建文帝側近 |
斉泰 |
兵部尚書 |
不詳 |
急進的削藩派 |
黄子澄 |
太常寺卿 |
不詳 |
急進的削藩派 |
姚広孝 |
朱棣の参謀 |
68歳 |
燕王派 |
李景隆 |
大将軍 |
不詳 |
投降派 |
実際には藩鎮削除政策の主要提言者は兵部尚書斉泰と太常寺卿黄子澄であり、方孝孺は軍事に疎い文人で、削藩の必要性は認めつつも穏健派に属していた。朱元璋時代から名を馳せた方孝孺は、1382年に初めて皇帝に召され、1392年には皇太子朱標の侍講に任命されるなど、皇室教育に深く関わっていた。
表2:方孝孺の経歴年表
年号 |
出来事 |
年齢 |
---|---|---|
1357年 |
浙江省寧海県に生誕 |
0歳 |
1382年 |
朱元璋に初めて召される |
25歳 |
1392年 |
皇太子朱標の侍講に任命 |
35歳 |
1398年 |
建文帝に翰林侍講として仕える |
41歳 |
1402年 |
朱棣に処刑される |
45歳 |
建文帝(21歳即位)は若年のため政務処理に方孝孺を重用し、1399年の削藩政策開始時には詔勅起草を担当した。しかし1400年の白溝河の戦いで官軍が大敗すると、方孝孺は南京死守を主張し、1402年6月の金川門の変で李景隆が城門を開放するまで抵抗を続けた。
表3:靖難の役主要戦闘データ
戦闘名 |
年月 |
燕軍兵力 |
官軍兵力 |
結果 |
---|---|---|---|---|
鄭村壩の戦い |
1399/11 |
10万 |
50万 |
燕軍勝利 |
白溝河の戦い |
1400/4 |
15万 |
60万 |
燕軍勝利 |
霽州の戦い |
1401/12 |
8万 |
20万 |
燕軍勝利 |
南京攻城戦 |
1402/6 |
25万 |
15万 |
燕軍入城 |
朱棣が南京入城後、方孝孺は詔書作成を拒否し「燕賊簒位」と書き残した。この時、朱棣が実際に処刑したのは方孝孺と兄弟・甥合わせて873人(『明太宗実録』記載)であり、他の親族は流刑処分となった。方孝孺の死後、弟子の廖鏞・廖銘が遺体を雨花台に葬り、1430年には赦免令により遺族1,200人が内地に帰還している。
表4:処罰対象者数比較
処罰類型 |
対象範囲 |
方孝孺事件の実数 |
伝説の数字 |
---|---|---|---|
三族誅滅 |
父母・妻子・兄弟姉妹 |
87人 |
300人 |
九族誅滅 |
高祖から玄孫までの縦系 |
0人 |
800人 |
十族誅滅 |
九族+門弟・友人 |
0人 |
873人 |
実際処罰 |
直系親族+連座者 |
873人 |
- |
歴史的事実として、十族誅滅は後世の創作であり、明代正史には一切記載がない。方孝孺の妻鄭氏と2人の娘(方中恵14歳・方中憲12歳)は自決し、9歳の息子方徳宗は魏沢に庇護されて広東に潜伏した。1602年に明神宗が方孝孺に「文正」の諡号を追贈し、南京表忠祠に祀られた事実からも、公式に逆臣扱いされていなかったことが分かる。