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則天武后は既に李顕を皇太子に立てたのに、なぜ李顕は神龍政変を起こしたのか?

神龍政変の原因は実に単純で、則天武后が重病に陥り、群臣にも息子たちにも会おうとせず、張易之・張昌宗兄弟(二張)だけが側にいたことにあります。李顕兄妹三人が五人の重臣と結託し、「君側の奸を清める」と称しながら、実際には則天武后が弱っている隙を突いたクーデターを実行し、則天武后に李顕への権力委譲を強要したのです。この政変が神龍元年(705年)に起きた理由は、まさに則天武后が病床に伏して政務を取れず、必然的に臣下に権限を委ねざるを得ない状況が、李唐王朝再興の好機となったからです。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

神龍政変の原因は実に単純で、則天武后が重病に陥り、群臣にも息子たちにも会おうとせず、張易之・張昌宗兄弟(二張)だけが側にいたことにあります。李顕兄妹三人が五人の重臣と結託し、「君側の奸を清める」と称しながら、実際には則天武后が弱っている隙を突いたクーデターを実行し、則天武后に李顕への権力委譲を強要したのです。

この政変が神龍元年(705年)に起きた理由は、まさに則天武后が病床に伏して政務を取れず、必然的に臣下に権限を委ねざるを得ない状況が、李唐王朝再興の好機となったからです。

則天武后は愚か者ではありませんでした。彼女が権力を託したのは最も信頼する臣下たちでした。しかし皮肉にも、その信頼していた臣下たちが神龍政変を主導したのです。政変を主導した五人の重臣は以下の通りです:

 

氏名

官職

年齢(当時)

政変後の処遇

張柬之

鳳閣侍郎

80歳

流刑→憤死

崔玄暐

鸞台侍郎

66歳

流刑→病死

敬暉

左羽林将軍

不明

凌遅刑

桓彦範

右羽林将軍

52歳

竹筏引き回し→撲殺

袁恕己

司刑少卿

不明

毒殺→撲殺


この五人は政変後に全て王に封じられたため、神龍政変は「五王政変」とも呼ばれます。中でも崔玄暐は則天武后自らが抜擢した人物でした。則天武后は「他人は推薦で登用したが、お前だけは朕が直接引き上げた。なぜこんなことを?」と問い詰めると、崔玄暐は「まさに陛下への恩返しのためです」と答えたと伝えられます。

興味深いのは、この五人の重臣の年齢と立場です。張柬之は当時80歳、崔玄暐66歳、桓彦範52歳と、既に高位にあった者ばかり。功名心や出世欲で動く年齢ではなく、表面的には五人が計画したように見えますが、実態は李唐宗室が背後で糸を引いていました。

政変当日、安定郡主の夫・王同皎らが東宮に駆けつけ、義父の李顕を迎える際に「先帝が殿下に国璽を託したのに、不当に廃位され23年。人も神も共に憤っている」と叫んだ様子が記録されています。この「人神同憤」が指すのは明らかに則天武后その人であり、単なる権力闘争ではなく武周体制そのものへの反逆でした。

李顕は女婿に馬上へ引きずり上げられる形で現場に連行され、相王李旦は南衙の兵を率いて張易之派を一掃。論功行賞では李旦が「安国相王」の称号を得て太尉に、太平公主は「鎮国太平公主」として五千戸の封戸を賜りました。ここからも政変の真の主導者が李氏三兄妹であったことが窺えます。

則天武后が退位して幽閉され、武氏一族が没落したことで、物語は終わるはずでした。しかし李顕が幽閉された則天武后と面会した後、態度が一変します。『資治通鑑考異』によれば、化粧をやめて老け込んだ則天武后が「房陵からお前を呼び戻したのは天下を譲るためだったのに、五人の逆賊が私をここまで追い込んだ」と泣きつくと、李顕は地面にひれ伏して「死罪を謝す」と応じました。この「死罪を謝す」とは、単なる謝罪ではなく、『漢書』にみられる「死罪、病(申し訳ありません、病気で)」のような儀礼的謝辞と解釈すべきでしょう。

この会見を境に、武三思ら武氏勢力が復活。李顕は政変を助けた功臣たちを次々と粛清し始めます。張柬之は80歳で流刑先で憤死、崔玄暐は67歳で流刑途中に病死。敬暉・桓彦範・袁恕己は周利貞によって残酷な方法で虐殺されました。周利貞はその後左台御史中丞に昇進しており、この処置が李顕の意思であったことが明白です。

興味深いのは、李旦と太平公主が形成した反武ネットワークです。李旦は娘たちを薛氏一族と結婚させ、武氏を完全に排除。対照的に李顕は子女を武氏と盛んに縁組し、宦官を重用して勢力基盤を築こうとしました。この違いが両者の運命を分けたのです。

政変の主導者を巡る謎は文献によって矛盾します。『旧唐書』は李顕主導説と李顕従犯説を併記し、『資治通鑑』は李顕が尻込みする様を生々しく描写します。真相は李旦が黒幕であったと推測されます。相王府の旧臣である袁恕己や、姚崇を通じた張柬之との繋がり、朱敬則の「相王こそ天命」という発言などがその根拠です。

李顕が功臣を虐殺し武氏を重用したのは、弟・李旦への恐怖心が根源にありました。房州配流で朝廷人脈を失った李顕は、母の最後の言葉に触発され、自らの権力基盤を守るためなら手段を選ばない暴君へと変貌したのです。一方の李旦は武三思の墓を暴いて遺体を損壊するほどの執念で武周残党を粛清し、真の李唐復興を成し遂げました。

則天武后最期の策略は見事に的中しました。母子の最後の対面で投じられた疑心の種が、李唐兄弟の確執を決定づけ、結果的に武周の復讐を果たしたのです。女帝は死の間際まで、自らが育てた息子たちを操る術を忘れなかったのでした。


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