「王鞭(皇帝を打つ鞭)は存在しないが、本当に皇帝が臣下に尻を叩かれた事例があるんだよ。『燕雲録』に記されてる話なんだけど、史上唯一この偉業(?)を達成したのが金の太宗・完顔晟(アグダの弟)なんだ。太祖皇帝・完顔旻(アグダ)が在位中に「国庫の銀は軍用以外で使うな」と決めてたんだけど、彼が死んだ後も弟の完顔晟がそのルールを守ってた......
「克己復礼」は主に貴族階級が自らの私欲を抑え、礼制を回復することを求める思想でした。「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」というこの制度は、一般労働者とはほぼ無縁であり、孔子自身も労働者を高く評価していたとは言い難い状況でした。この思想は基本的に実現不可能だったようで、孔子が諸国を周遊しながらも最終的に理想を達成できなかった事実がそれを物語っています。...
南北朝の正統性序列について、まず南朝は明確な継承順序を持っています。つまり元帝紹祚→東晋→劉宋→南斉→南梁→南陳という流れで、これは議論の余地がありません。北朝の正統性については様々な議論があります。一般的な観点では『二十四史』に正史として認められた政権が正統とされますから、北朝正統は元魏(『魏書』)から始まると言えます。...
実は周の封建制度の本質は王室を守ることではなく植民地経営だった。他国の領土に監視役として封じたもので、有名な「三監」は殷宋を監視し、斉国は萊夷を、燕国は粛慎を、唐国(後の晋国)は狄族を監視するためだった。魯国は莒や徐の夷人を監視する役割。他の同姓諸侯もそれぞれ監視対象を持っていたが、ここでは全部は挙げない。西周は直轄地に大諸侯国を封建したことはなく、分封したのは全て関内侯(王室直臣)で、土地も小さく人口も少なく、常に周の管理下にあった(史料を再読して思ったが、これらの関内侯の封地のほとんどが国境地帯にあり...