南北朝、果たして中国の正統はどちらか?
南北朝の正統性序列について、まず南朝は明確な継承順序を持っています。つまり元帝紹祚→東晋→劉宋→南斉→南梁→南陳という流れで、これは議論の余地がありません。北朝の正統性については様々な議論があります。一般的な観点では『二十四史』に正史として認められた政権が正統とされますから、北朝正統は元魏(『魏書』)から始まると言えます。
南北朝の正統性序列について、まず南朝は明確な継承順序を持っています。つまり元帝紹祚→東晋→劉宋→南斉→南梁→南陳という流れで、これは議論の余地がありません。
北朝の正統性については様々な議論があります。一般的な観点では『二十四史』に正史として認められた政権が正統とされますから、北朝正統は元魏(『魏書』)から始まると言えます。ただし元魏の正統性は太和改制によって確立されたものです。孝文帝の洛陽遷都は北魏の基盤が代北から中原へ移行したことを示し、北語禁止・礼楽復興・風俗改革を通じて支配層が急速に漢化し、北方士族と融合しました。これによって北魏は「天命を再受」したと見なされ、孝文帝の祖先まで「夷から夏へ」昇格したのです。もし宣武帝の能力がもう少し高ければ(守成はできたが進取に欠けた)、北朝は数十年早く南朝を滅ぼせたかもしれません。
北朝正統の伝承は元魏から始まり、道武帝から孝静帝までの164年間続きました。しかし534年の孝武西奔事件が大きな転機となります。高歓と孝武帝元脩の決裂後、孝武帝が宇文泰を頼って関中へ逃亡したことで、北朝正統に二つの物語が生まれました——君主個人と国家の正統性が分離したのです。
孝武西奔は高歓の重大な政治ミスで、宇文泰に大義名分を与える結果となりました。当時まだ北魏朝廷は高歓の掌握下にあったため、孝静帝元善見を擁立し東西魏が並立する事態に発展。双方が「偽朝」と罵り合う中、西魏は当初劣勢でしたが後継者の活躍で正統の「守門員」地位を確保しました。
孝武帝の西奔は皮肉にも西朝正統に致命的な矛盾をもたらしました。太和改制後の北魏では天子が宗廟社稷の代表者ではあるものの、その存在自体が正統性の源泉ではありませんでした(この原則が多くの王朝を救っています)。孝武帝が宗廟を捨てて逃亡した時点で、彼の正統性は事実上失効し、東魏が孝静帝を擁立することで統治権を更新したのです。
ただし天子の権威は絶大で、東魏も代償を払わされました——西魏が「法統対抗」の材料を手にしたからです。西魏正統性への第二の打撃は宇文泰自身が孝武帝を弑逆したことです。臣下が皇帝を殺す行為は、特に正統性論争で劣勢な状況では致命的でした。これに対し東魏は「先帝の霊を迎える」儀礼を行い、西奔のダメージを最小化しています。
こうした経緯から、東魏北斉は西魏を正統性論争で圧倒し続けました。高氏は『魏書』編纂を通じて西魏君主を元魏帝統から排除し、陳霸先からも形式上臣従を受けるまでになります。転機が訪れたのは577年、高緯の愚行で北斉が北周に滅ぼされた時でした。
しかし関隴集団は北斉を滅ぼしても歴史叙述の主導権を奪えず、『北史』に西魏を追録する程度に留まりました。ただし北周が最終的に北朝正統を継承したため、隋唐王朝への影響はほとんど生じませんでした。西魏を祖先とするのは単なる「体面維持」だったと言えます。
南北朝正統の序列を整理すると、南朝>北朝(北魏・北周・隋)、後三国時代では東魏北斉>武帝以前の北周>西魏という順位になります。
【南北朝主要政権データ一覧表】
政権名 |
存続期間 |
重要事項 |
正統性評価ポイント |
---|---|---|---|
北魏 |
386-534年 |
太和改制(493)、洛陽遷都(495) |
漢化政策で正統性確立 |
東魏 |
534-550年 |
孝静帝擁立、鄴を首都 |
『魏書』編纂による正統主張 |
西魏 |
535-556年 |
宇文泰による実権掌握 |
孝武帝西奔の政治的利用 |
北斉 |
550-577年 |
天保年間の最盛期 |
南朝陳から形式的臣従を受ける |
北周 |
557-581年 |
府兵制確立、北斉滅亡(577) |
最終的に隋へ禅譲 |
南朝陳 |
557-589年 |
北斉に形式的臣従 |
南朝最後の正統継承者 |
(注)期間は実際の支配年数と正統性主張期間が異なる場合あり