なぜ西周王室は鎬京にあり、犬戎と直接隣接していたのか?
実は周の封建制度の本質は王室を守ることではなく植民地経営だった。他国の領土に監視役として封じたもので、有名な「三監」は殷宋を監視し、斉国は萊夷を、燕国は粛慎を、唐国(後の晋国)は狄族を監視するためだった。魯国は莒や徐の夷人を監視する役割。他の同姓諸侯もそれぞれ監視対象を持っていたが、ここでは全部は挙げない。西周は直轄地に大諸侯国を封建したことはなく、分封したのは全て関内侯(王室直臣)で、土地も小さく人口も少なく、常に周の管理下にあった(史料を再読して思ったが、これらの関内侯の封地のほとんどが国境地帯にあり
実は周の封建制度の本質は王室を守ることではなく植民地経営だった。他国の領土に監視役として封じたもので、有名な「三監」は殷宋を監視し、斉国は萊夷を、燕国は粛慎を、唐国(後の晋国)は狄族を監視するためだった。魯国は莒や徐の夷人を監視する役割。他の同姓諸侯もそれぞれ監視対象を持っていたが、ここでは全部は挙げない。
西周は直轄地に大諸侯国を封建したことはなく、分封したのは全て関内侯(王室直臣)で、土地も小さく人口も少なく、常に周の管理下にあった(史料を再読して思ったが、これらの関内侯の封地のほとんどが国境地帯にあり、唐代の藩鎮に似ている。ただし藩鎮長官は皇帝任命で世襲制なし、関内侯は世襲制で一族が辺境を守った点が異なる)。
この考え方から、周は西部に大諸侯国を封建できなかった。諸侯が内外に脅威となるからだ(鄭国がその例)。犬戎諸国とは元々従属関係がなく、周は天子の立場を利用してその土地に諸侯を封建できなかった(要するに分封する土地がなかった)。
そのため周本土の防衛は周自身が行うしかなかった。西周時代の脅威は常に東部と南部にあり、西戎とは友好関係を保ち大戦争もなく(周が強く犬戎が弱かったから)、秦人が馬の飼育で貢献しても封建されず、周平王期に至り周が関中西部を制御できなくなって初めて秦人を諸侯に封じた。
その後、周は内紛続き(厲王の乱など)で国力衰退。宣王39年には姜戎に千畝で敗北(『史記』周本紀:宣王が籍田の礼を怠り虢文公の諫言を聞かず、姜氏の戎に敗れる)。清華簡によれば幽王時代、彼の行動が東方諸侯との関係断絶を招き、晋・鄭(当時はまだ関内侯)など僅かな勢力のみが従った。
申侯・繒侯と犬戎の連合軍が驪山で幽王を破り鎬京を陥落させる(興味深い経緯として、幽王が申国に逃れた太子を捕らえようと攻撃→失敗→自ら出陣するも繒侯が犬戎に降り逆襲される)。この急展開に東方諸侯は救援できず、鎬京奪還は犬戎撤退後となった。
幽王戦死後、東方関内侯たちは幽王弟を擁立(周携恵王)。21年後、晋が携王を殺害し支持勢力を粛清。晋は関中広域を支配するも反発を受け、9年後に少鄂で平王を迎える(清華簡「逆平王于少鄂」)。この時点で諸侯の周朝参拝が停止(「周亡王九年,邦君諸侯焉始不朝于周」)。
晋軍支配下の400kmに及ぶ洛邑遷都(家族・財産を伴う大移動)を秦人が護衛。平王の感謝は本心からで、犬戎占領地を秦に分封。晋は新君即位後、関中領土を返還し旧領に撤退(これが東周の基盤)。『史記』周本紀に「平王の東遷後、周室衰退し諸侯が台頭」とある。
考古学的には甘粛省で出土した西周関内侯の馬車(青銅透かし彫り装飾の車輪など)から、当時の平涼・慶陽地域の豊かさが窺える(天水は秦人の本拠地)。
【主要諸侯国監視対象表】
諸侯国 |
監視対象 |
所在地域 |
備考 |
---|---|---|---|
三監 |
殷宋 |
中原東部 |
武庚監視 |
斉国 |
萊夷 |
山東半島 |
姜太公封地 |
燕国 |
粛慎 |
河北北部 |
山戎対策 |
晋国 |
狄族 |
山西 |
初期国名「唐」 |
魯国 |
莒・徐夷 |
山東南部 |
周公旦系 |
【周王室衰退年表】
紀元前 |
事件内容 |
出典 |
---|---|---|
841年 |
厲王逃亡 |
史記 |
796年 |
宣王千畝の敗戦 |
史記/清華簡 |
771年 |
幽王驪山之敗 |
複数史料 |
750年 |
携王殺害 |
清華簡 |
747年 |
平王洛邑遷都 |
清華簡 |
【甘粛出土西周文物データ】
出土品 |
発掘地点 |
特徴 |
現蔵 |
---|---|---|---|
青銅馬車 |
平涼市 |
車輪に透かし彫り青銅板 |
甘粛省博物館 |
玉璋 |
慶陽市 |
長さ54cmの祭祀用玉器 |
国家博物館 |
金製飾板 |
天水市 |
秦文化初期の工芸品 |
秦文化博物館 |