孔子の『克己復礼』をどう考えるか
「克己復礼」は主に貴族階級が自らの私欲を抑え、礼制を回復することを求める思想でした。「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」というこの制度は、一般労働者とはほぼ無縁であり、孔子自身も労働者を高く評価していたとは言い難い状況でした。この思想は基本的に実現不可能だったようで、孔子が諸国を周遊しながらも最終的に理想を達成できなかった事実がそれを物語っています。
「克己復礼」は主に貴族階級が自らの私欲を抑え、礼制を回復することを求める思想でした。
「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」というこの制度は、一般労働者とはほぼ無縁であり、孔子自身も労働者を高く評価していたとは言い難い状況でした。
この思想は基本的に実現不可能だったようで、孔子が諸国を周遊しながらも最終的に理想を達成できなかった事実がそれを物語っています。
武帝が「百家を廃し儒術を尊ぶ」政策を打ち出したにも関わらず、 自らは大規模な遠征を好み、民衆を草刈りの如く殺戮し、奢侈にふけり、母を殺して子を立てるなど、実子すら容赦しませんでした。これは武帝が儒教を選択的に利用していたことを示しています。
権力者たちは地位を固める際には手段を選ばず、一旦権力基盤が安定するとすぐに教育を振興し、孔子を祀り尊び、その権威をどんどん膨らませていく傾向があります。
太宗の玄武門の変、宋の太祖の黄袍加身、則天武后の権力掌握——これらは全て不正な手段によるものでしたが、いずれも権力安定後すぐに孔子祭祀や寺院建立を開始しています。
袁世凱が清皇帝を退位させた行為は明らかに儒教的倫理に反するものでしたが、帝政復古を図る際には突然孔子祭祀を始めました。これは儒教が単なる都合の良い道具として扱われていたことを如実に物語っています。
歴史事例比較表:
人物 |
権力掌握方法 |
儒教利用事例 |
矛盾点 |
---|---|---|---|
漢武帝 |
世襲制 |
儒教国教化(BC136年) |
年間戦費: 国家歳入の70%超 |
唐太宗 |
玄武門の変(626年) |
国子監拡充(生徒数3,000人) |
兄弟殺害 |
宋太祖 |
陳橋の変(960年) |
科挙制度本格化 |
後周からの簒奪 |
袁世凱 |
清朝廃位(1912年) |
祭孔大典復活(1914年) |
21カ条要求受諾(1915年) |
このように儒教を盲信するのは危険ですが、かと言って全否定するのも問題です。孟子の「民を本とし、社稷これに次ぎ、君を軽しとする」という思想は、現代でも通用する先進性を備えています。
「彼らが善人たれと教えるのは、自分が悪事を働きやすくするため」という側面には警戒が必要です。古人が「読書に凝り固まる」と戒めたように、バランス感覚が何よりも重要と言えるでしょう。