古代の賢臣は本当に「上は暗君を打ち、下は奸臣を打つ」王鞭を持っていたのか?
「王鞭(皇帝を打つ鞭)は存在しないが、本当に皇帝が臣下に尻を叩かれた事例があるんだよ。『燕雲録』に記されてる話なんだけど、史上唯一この偉業(?)を達成したのが金の太宗・完顔晟(アグダの弟)なんだ。太祖皇帝・完顔旻(アグダ)が在位中に「国庫の銀は軍用以外で使うな」と決めてたんだけど、彼が死んだ後も弟の完顔晟がそのルールを守ってた...
「王鞭(皇帝を打つ鞭)は存在しないが、本当に皇帝が臣下に尻を叩かれた事例があるんだよ。『燕雲録』に記されてる話なんだけど、史上唯一この偉業(?)を達成したのが金の太宗・完顔晟(アグダの弟)なんだ。
太祖皇帝・完顔旻(アグダ)が在位中に「国庫の銀は軍用以外で使うな」と決めてたんだけど、彼が死んだ後も弟の完顔晟がそのルールを守ってた...と思いきや実はコソコソ流用してたんだよね。もしかしたら現代風に言うなら「配信者へのスパチャ」とか「遊興費」に使ってたのかも? でもこれがナイショにできてなくて、「ナンバー2」の皇太弟・完顔杲(ガオ)と重臣・粘罕(ネイハン)にバレちゃう。で、臣下たちが何をしたかってーなんと「朝廷の皆の前で皇帝の尻を20回ぶん殴った」んだからスゴいよね。
当時の漢人官僚たちは「ありえねー!」って脳がフリーズしたらしい。民間の講談師も「そこまでネタにできないわ」状態。だって同時代の演目『包青天が龍袍を打つ』ですら(実際に打ってないのに)「太后命令」という安全装置付きなのに、現実はもっと過激で「生身の皇帝が20発」「下手人が実弟&重臣」ってんだから。しかも殴った二人はその後も栄華を極めて、何の報復も受けてないんだからこれまた驚き。
『三朝北盟会編』が引く『燕雲録』の記述もこれ:
《国主呉乞買(太宗)が私用で使い過ぎたので、諳版(完顔杲)が粘罕に相談。君臣が国主を支えながら殿から下ろし、庭杖20回。終わったら再び支えて昇殿させ、諳版以下が謝罪しながら杯を回した》
面白い対比があるんだ。金の太宗が少年時代を過ごしていたまさにその時、宋では超大物・蘇軾が「烏台詩獄」で捕まってたんだよね。宰相の王珪が「『蟄龍』って詩句が皇帝への不敬だ!」と難癖つけた事件。実際の詩ってこんな感じ:
《凛然として相対し敢えて欺かず/真っ直ぐな幹は空を突き奇を求めず/根は九泉に届き曲がるところなし/世に蟄龍のみぞ知る》
こんな詩句で「反逆の疑い」とか言う宰相の小心さ! しかも皇太后まで「私の誕生日だから蘇軾を赦して」って懇願してたのに、皇帝は納得せず左遷して辱めたんだから。
比べてみると、臣下に尻叩かれても恨みを残さなかった金の太宗の度量の広さが光るよね。リーダーの良し悪しって、比べると本当に歴然とするんだなあ。」
<補足データ表>
項目 |
金太宗事件 |
蘇軾事件 |
---|---|---|
時期 |
1123-1135年(太宗在位期間) |
1079年(烏台詩獄発生) |
当事者 |
完顔晟(皇帝) vs 完顔杲・粘罕 |
蘇軾 vs 王珪(宰相) |
処罰内容 |
公開杖刑20回 |
130日間拘留後黄州へ左遷 |
処罰理由 |
国庫流用(軍資金約5万両?) |
「蟄龍」詩句の政治的解釈 |
裁定者 |
臣下による集団裁定 |
神宗皇帝の独断 |
社会的反響 |
女真族の慣習として認知 |
士大夫階級に衝撃広がる |
後日談 |
処罰者がその後も要職に |
蘇軾は赦免後も各地を転々 |
歴史的評価 |
女真の簡素な統治風土を示す |
宋の文書獄の典型例 |
(注:数値は『金史』『宋史』を基に推定したものです。特に国庫流用額は当時の歳入約200万両に対し、軍資金比率から逆算) |