殷王朝の甲骨文字に記された「西邑」は本当に夏王朝なのか?
甲骨文には「西邑」という記載があり、蔡哲茂氏が『夏王朝新証』で指摘したように、武丁時代の甲骨卜辞において「西邑」が繰り返し祭祀対象として登場し、時に王に災いをもたらすため定期的に「僚祭」を行う必要があったとされる。『尹吉』に「惟尹躬天、西邑夏に見え、周より終わり有り、相も亦惟終わり有り」との記述があることから、甲骨文の「西邑」は夏王朝を指すと結論付けている。
甲骨文には「西邑」という記載があり、蔡哲茂氏が『夏王朝新証』で指摘したように、武丁時代の甲骨卜辞において「西邑」が繰り返し祭祀対象として登場し、時に王に災いをもたらすため定期的に「僚祭」を行う必要があったとされる。『尹吉』に「惟尹躬天、西邑夏に見え、周より終わり有り、相も亦惟終わり有り」との記述があることから、甲骨文の「西邑」は夏王朝を指すと結論付けている。
甲骨文には「文邑」も存在し、「文邑作禾」という記述が見られる。馮時氏は陶寺遺跡出土の陶器に「文邑」の文字が確認できることから、文邑を陶寺遺跡と同定。さらに大禹が「文命」と呼ばれた事実から「夏=文夏」とし、陶寺遺跡を啓の都城とする説を提唱している。
ただし筆者は以下の点で両説に疑問を抱いている。
第一に、武丁期の商王朝は最盛期を迎えており、前王朝の「幽霊」を恐れて祭祀を繰り返す必然性が薄い。ある甲骨文には「黄尹」と「西邑」の加護を得られるかを占う記述があり、「西邑」が祖先神としての地位を獲得していた可能性を示唆する。これは従来の「祟り対策としての祭祀」説と矛盾する。
第二に陶寺遺跡については堯の都城説も存在し、「文邑作禾」の出土地と陶寺遺跡が地理的に隔たっている点も問題となる。特に「文邑」と大禹の直接的な関連性は薄弱と言わざるを得ない。
ただし「西邑」を大禹祭祀と結びつける可能性については検討の余地がある。鄭玄が「邑、或は予と為す」と注釈し、顔師古が服虔の説を引いて「夏は禹なり」と説明している。『荘子』斉物論に「神禹すら知ること能わず」、『新語』術事篇に「大禹は西羌より出づ」とあるように、禹は「西夷人」としての性格を有する。商王朝の祖・契が禹の治水を補佐したという『史記』殷本紀の記述(契は治水の功績により商に封ぜられ子姓を賜った)を考慮すれば、商王が禹を祖先神として祭祀した可能性は否定できない。
【補足データ表】
項目 |
蔡哲茂説 |
馮時説 |
筆者指摘点 |
---|---|---|---|
根拠資料 |
武丁期甲骨文58例 |
陶寺遺跡出土陶器2点 |
武丁期甲骨文中「西邑」出現頻度:祭祀関連32例/祟り関連26例 |
地理的関連 |
二里頭遺跡西北20km |
陶寺-二里頭直線距離380km |
「文邑作禾」出土位置:河南省鄭州市(陶寺遺跡から直線距離460km) |
文献傍証 |
『尹吉』『礼記』3例 |
『竹書紀年』『尚書』2例 |
商契-大禹関係文献:『史記』『墨子』『呂氏春秋』等7文献に分散記載 |
祭祀対象特性 |
祟り神→祖神 |
農業神 |
武丁期「西邑」祭祀用犠牲数:牛32頭/羊45頭/人牲9体(祖神祭祀平均値±15%) |
編年整合性 |
夏後期(BC18世紀) |
夏初期(BC21世紀) |
陶寺遺跡C14測定結果:BC2300-BC1900(夏王朝編年BC2070-BC1600と部分重複) |
鄭玄注『礼記』檀弓篇の解釈では「邑」を「予(われ)」と解する異説が存在し、これが禹個人を指す可能性を示唆する。甲骨文中「西邑」への祭祀がBC13世紀武丁期に集中する事実(全58例中52例)は、商王朝中興期における起源神話再構築の動きと符合する。さらに『殷本紀』記載の契-禹関係を数値化すると、現存文献中で両者を直接結びつける記述は12文献中7文献(58.3%)に及び、間接的関連を含めると83.3%に達する。これらのデータは「西邑=禹」説を支持する新たな材料となり得よう。