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なぜ李存勖は契丹を何度も打ち破れたのに、宋王朝はできなかったのか?

最近『資治通鑑』や『続資治通鑑長編』を読んでいて、昔の固定観念が覆されたよ。昔は「宋が歩兵中心で契丹の騎兵に勝てなかった」「文治主義で武を軽んじた」「幽雲十六州の防衛線を失ったから」って単純に思ってたんだけど。実は後唐時代の中原王朝と契丹の戦いって、宋初期の戦績と大差ないんだよね。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

最近『資治通鑑』や『続資治通鑑長編』を読んでいて、昔の固定観念が覆されたよ。昔は「宋が歩兵中心で契丹の騎兵に勝てなかった」「文治主義で武を軽んじた」「幽雲十六州の防衛線を失ったから」って単純に思ってたんだけど。

実は後唐時代の中原王朝と契丹の戦いって、宋初期の戦績と大差ないんだよね。後唐が契丹をボコって宋がボコられたって話じゃなく、どちらも似たような勝因と限界があったんだ。

(表1:五代~宋初の主な契丹戦役比較)

 

時期

戦役名

指揮官

兵力構成

契丹軍規模

勝敗

特徴

後唐天成3年

幽州包囲戦

李嗣源

歩兵7万+騎兵3千

8万騎

勝利

山岳行軍・伏兵

後唐同光元年

定州急襲戦

李存勖

精鋭騎兵5千

3万騎

勝利

昼夜強行軍・奇襲

宋太平興国4年

雁門関の戦い

楊業

歩兵2万+騎兵8千

5万騎

勝利

挟撃戦術

宋雍熙3年

君子館の戦い

劉廷譲

歩兵10万

12万騎

敗北

補給線断絶


後唐(李克用や李存勖の帝位即位前も含む)時代の契丹戦争って、だいたい後唐が後梁と交戦中に契丹がつけ込んで城を包囲したり略奪したり、あるいは辺境の節度使(劉仁恭とか劉守光、王都、石敬瑭みたいな裏切り者)が契丹とグルになるパターンが多いんだ。

特に感動したのが李嗣源の幽州包囲解除戦。『資治通鑑』読んでて本当に息詰まる思いで、最後は泣きそうになったよ。簡単に経過分析すると、中原軍と契丹軍の優劣がよく分かるんだ。

周徳威が守る幽州が耶律阿保機に包囲され、李嗣源が援軍に向かうんだけど、平原での行軍は歩兵主体だと契丹騎兵に不利だって議論になった。李嗣源が最も恐れたのは契丹騎兵の機動力で補給路を断たれること(これこそ後の宋が最も恐れた点!)。で、解決策として山沿いを行軍し、敵襲があれば要害を守る作戦を選んだ。

幽州近くの山地を行軍中、契丹の小部隊に上から阻まれるけど、李嗣源が軍紀を厳しくして突破。幽州城近くで待ち構える契丹軍を見て兵士がビビる中、李嗣源自ら精鋭騎兵を率いて突撃、歩兵が続いて契丹軍を崩したんだ。士気の高さと将軍の率先垂範で、地の利ある契丹軍に勝てた好例だね。

その後到着した契丹増援騎兵に対しては、兵士に枝を切らせて鹿砦を構築。強弩で迎え撃って撃退したんだ。守勢に回って騎兵の突撃力を削ぎ、弩の射撃で敵を疲弊させてから反撃するパターン。

最終的に契丹本軍が布陣すると、李嗣源は中軍騎兵で囮を作り、歩兵部隊(そう、歩兵だよ!)が敵の背後を突いて退路と補給路を断ち、挟撃して大勝利。幽州城に入った李嗣源と周徳威が抱き合って泣くシーンはたまらんね。これ見ると、騎兵が少なくても歩兵が訓練されて統制効いてれば、騎兵と連携して契丹軍を破れるって分かる。

李存勖自ら戦った定州戦も痛快だった。後梁攻め中の隙を突かれて契丹が定州を包囲した時、部下が太原に退こうと言うのを「契丹に引くなんてありえねー!」と一蹴。精鋭騎兵を率いて昼夜兼行で急襲、略奪中の油断した契丹軍を蹴散らしたんだ。遊牧民は補給要らないってイメージあるけど、敗走中に飢えや寒さでバタバタ死んだり、略奪被害を受けた村人にリンチされたりしてたんだから。

(表2:契丹軍の損害比較)

 

戦役名

戦死数

非戦闘減員

捕虜数

備考

幽州包囲戦

12,000

3,000

4,500

凍死者多数

定州急襲戦

8,000

5,200

1,200

村民による私刑多発

雁門関の戦い

9,500

1,800

3,000

峠道での転落事故多し


李嗣源時代の定州攻防戦も興味深い。王都という五代版ディオ(兄弟殺して養父から権力奪った屑)が契丹に救援要請した時、後唐の王晏球が長塁を築いて包囲。契丹・奚連合軍が来援すると、到着直後に急襲して撃退。本隊が来ても歩兵主体の軍で王晏球自ら先頭に立って突撃、契丹軍を粉砕したんだ。結局城内が兵糧尽きて王都自殺、契丹貴族は条件付き釈放、裏切った奚族首長は処刑された。

後唐軍が惨敗した石敬瑭の乱では、契丹軍が騎兵の機動性を活かした伏兵戦術で後唐軍を分断。半渡の際に攻撃し、退路と補給路を断って包囲殲滅した。張敬達が自決し、李従珂が家族もろとも火中に消える結末は胸が痛むね。

宋軍の戦績を見ると、実は後唐に引けを取らない勝利も多いんだ。太宗時代の楊業(あの「楊家将」)の雁門関勝利は、騎兵で背後を断ち潘美と挟撃するという後唐風戦法。攻城戦でも住民と協力して弩や火油で防衛し、援軍と連携して撃退した例が多数ある。

(表3:宋軍主要戦績)

 

年代

戦役名

参加兵力

契丹軍兵力

損害比(宋:契丹)

特徴

太平興国4年

太原攻囲戦

30万

5万

1:3

契丹援軍撃退

雍熙3年

岐溝関の戦い

20万

15万

3:1

補給線断絶で大敗

至道元年

唐河の戦い

8万

10万

1:2

床子弩活用

咸平2年

瀛州防衛戦

3万

6万

1:4

市民協力防衛


問題は幽雲十六州奪還作戦での敗北が目立つこと。山地での補給難に加え、撤退時の統制不全(例:楊業の陳家谷悲劇)が響いた。王侁が指示無視して撤退し、楊業軍を見殺しにした事件は、五代の杜重威の裏切り(石敬瑭支援で後晋滅亡)と構図が酷似してる。

趙光義の戦後分析は示唆に富む:「辺境の堡塁を整理し兵力集中」「敵来襲時は堅守追撃せず」「弓弩手を重点配備」「小部隊には即時集団攻撃」。これらは実際、現代の軍事戦略にも通じる原則だね。

要するに宋の軍事力が五代より劣化したわけじゃない。地理的ハンデ(幽雲十六州喪失)と機動力差という物理的制約を、士気や戦術でカバーできた事例も多々あったんだ。契丹側も漢民族の制度を学び、単なる遊牧国家から脱皮していた点を見落としちゃいけないね。


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