宋の高宗・趙構はかつては勇敢だったのに、なぜその後あんなに臆病になったのか?
やっぱり趙構ってのは実に偉大だったんだよ。文字通り狂瀾を支え止めた一代の君主さ。南宋のボロボロ状態は、南明よりもずっと悲惨なスタートだったんだからな。南明に趙構みたいな皇子がいたら、各軍閥をまとめて内紛を抑え、一致団結して外敵に対抗できたはず。半壁の江山は守れたし、夷狄の悪臭が中華全土を267年も覆うことなんてなかったのにさ。
やっぱり趙構ってのは実に偉大だったんだよ。文字通り狂瀾を支え止めた一代の君主さ。南宋のボロボロ状態は、南明よりもずっと悲惨なスタートだったんだからな。
南明に趙構みたいな皇子がいたら、各軍閥をまとめて内紛を抑え、一致団結して外敵に対抗できたはず。半壁の江山は守れたし、夷狄の悪臭が中華全土を267年も覆うことなんてなかったのにさ。
趙構が腰抜けに見えるのは、南宋の実力が許さなかったからだよ。南宋の歩兵軍団は、江淮の水網地帯でなら戦えたし、川陝戦区の堡塁防衛もできた。でも華北大平原で金軍の重騎兵と決戦なんて、まともな結果になるわけない。
後の「端平入洛」で南宋が数世代かけて蓄えた軍勢がどうなったか、見れば分かるだろう?
「大一統」という政治的正しさの下では、天下統一を果たせない者は全て悪者にされる。だから趙構は完全に悪人扱いされ、朱由検(崇禎帝)よりも評判が悪いんだ。
南宋建国当時は、社稷が崩れ、山河が揺らいでいた。それでも崩壊を防げたのは、江淮と川陝で幾つかの決定的な戦いに勝ったからだ:
【南宋防衛戦キーポイント】
戦役名 |
時期 |
場所 |
指揮官 |
相手 |
結果 |
---|---|---|---|---|---|
黄天蕩の戦い |
1130年 |
黄天蕩 |
韓世忠 |
完顔兀朮 |
48日間の持久戦に成功 |
和尚原の戦い |
1131年 |
和尚原 |
呉玠 |
完顔宗弼 |
金軍の進撃阻止 |
饒鳳関の戦い |
1133年 |
饒鳳関 |
呉玠 |
撒離喝 |
山岳地帯での奇襲成功 |
仙人関の戦い |
1134年 |
仙人関 |
呉璘 |
完顔宗弼 |
連立堡塁で防衛 |
順昌の戦い |
1140年 |
順昌 |
劉錡 |
完顔兀朮 |
暴風雨を利用した奇襲勝利 |
まず韓世忠が黄天蕩で完顔兀朮を足止めした戦い。次に呉玠が和尚原の戦い・饒鳳関の戦い・仙人関の戦いで、陝西から四川侵入を図る金軍を撃破。さらに劉錡が順昌で完顔兀朮を防いだ。これら全て江淮の水田地帯や川陝の山地での防衛戦だったんだ。水網と山岳という地の利を最大限に活かした戦略こそが、南宋存続のカギだったってことさ。