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北方の漢人はなぜモンゴル人を支援して南宋を攻撃したのか?

南宋初年の抗金活動は北宋末期の抗金闘争の延長線上に位置づけられる。このことが南宋前期の正統性を強く支えていた。しかしその正当性は急速に失墜していった。辛棄疾を例に考えてみよう。辛棄疾は1140年生まれ、1207年没。南宋建国(1127年)から13年後、南宋滅亡(1279年)の72年前、臨安陥落(1276年)の69年前にこの世を去っている。享年67歳。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

南宋初年の抗金活動は北宋末期の抗金闘争の延長線上に位置づけられる。このことが南宋前期の正統性を強く支えていた。しかしその正当性は急速に失墜していった。

辛棄疾を例に考えてみよう。

辛棄疾は1140年生まれ、1207年没。南宋建国(1127年)から13年後、南宋滅亡(1279年)の72年前、臨安陥落(1276年)の69年前にこの世を去っている。享年67歳。

1161年、完顔亮が大軍を率いて南下した際、21歳の辛棄疾は義兵を挙げた。この年から彼の死まで実に46年もの歳月が流れる。仮に10年で成長し、10年で北伐を準備し、20年で北伐を達成したとすれば、27年間の安定期を過ごせたはずだ。

しかし1162年に南宋に帰順した彼は、江北に北人を置かないという南宋の方針により江南に留め置かれる。67年の人生のうち45年を「隠居生活」として過ごすことになったのである。

【辛棄疾関連年表】

 

西暦

出来事

年齢

南宋関連事項

1127

 

 

南宋建国

1140

辛棄疾誕生

0

 

1161

完顔亮南下、挙兵

21

 

1162

南宋帰順

22

 

1207

死去

67

 

1276

 

 

臨安陥落(死後69年)

1279

 

 

南宋滅亡(死後72年)


南宋の北人政策は矛盾に満ちていた。初期の抗戦熱は急速に変質し、裏切り者がはびこる政権へと堕していく。北方義勇軍が金軍を阻み領土を回復しても、南宋内部の権力闘争(史弥遠と理宗のクーデター)で正統派が排除される。最終的に義勇軍はモンゴルと連合して金を滅ぼす道を選ばざるを得なかった。

金滅亡後、モンゴルの南宋侵攻が始まると、再び北方で反元蜂起が発生。しかし南宋自体が最早守る価値のない存在となっていた。最後まで抗戦した張世傑の陸軍部隊ですら、実は北方出身の張柔配下の将軍であった。

歴史は繰り返す。清代においても揚州十日・嘉定三屠の悲劇や、山東于七の反乱(1650-1662)、河南李自成軍との対立など、北方の抵抗勢力は常に南北両方からの圧迫にさらされていた。南北朝時代の劉宋が山東を拠点に北魏と対峙したように、南方政権は北方民衆の力を借りなければ塞外勢力に対抗できなかった。

理学者たちの歴史歪曲が問題だ。「北方漢人が何故モンゴルに協力したか」という問い自体が、強制徴兵と自主蜂起を混同する詭弁である。史弥遠の飯を食いながら「出師表に涙せぬ者は不忠」と説く連中の偽善こそ、真の「道徳的脅迫」だったと言えよう。


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