宋王朝はなぜそれほど弱かったのか?
宋が弱かったわけじゃなくて、状況が複雑すぎたんだ。客観的に見れば、宋王朝は建国後44年間は決して弱くなかった。燕雲十六州を失ってから、中原全体が異民族の刃に晒されることになった。
宋が弱かったわけじゃなくて、状況が複雑すぎたんだ。
客観的に見れば、宋王朝は建国後44年間は決して弱くなかった。
燕雲十六州を失ってから、中原全体が異民族の刃に晒されることになった。天然の要害がなく、これが後に金軍が二度も汴京(開封)まで攻め込めた理由だ。燕雲の防衛ラインがないと、黄河だけでは遊牧民族の騎馬軍団を防ぎきれない。
石敬瑭の売国行為が後の中原王朝に先天性の弱点を残したと言える。宋が漢・唐・明のような輝かしい王朝になるには燕雲奪回が必須だった。ただし機会が全くなかったわけではない。耶律璟の治世で契丹内部が混乱していた時期は、後知恵で言えば絶好のチャンスだった。しかし趙匡胤(太祖)自身が不正な手段で皇帝になったため内部統制に時間を要し、さらに後唐や後晋の戦例から契丹の戦力を過大評価していた。北漢征伐で契丹出兵の報を受けるとすぐ撤退したほどで、武力奪回より外交交渉で燕雲を買い戻す計画を立てていた。
こうして宋が内部統制に忙殺されている間に、契丹側も手をこまねいていたわけではない。耶律璟を排除して先に内部統制を完成させた。
趙光義(太宗)が北漢を滅ぼした時、契丹はすでに体制を固めていた。それでも初期の戦闘では契丹軍が宋に苦戦している。
初期戦役データ
戦役名 |
時期 |
宋軍指揮官 |
契丹軍指揮官 |
戦果 |
---|---|---|---|---|
白溝河の戦い |
979年 |
郭進 |
耶律沙 |
契丹軍1万以上撃破 |
幽州包囲戦 |
979年 |
趙光義 |
耶律奚底 |
契丹軍1千級斬首 |
満城の戦い |
979年 |
崔彦進 |
韓匡嗣 |
契丹軍3万撃破 |
特に幽州包囲戦では趙光義自ら陣頭指揮を執り、契丹の精鋭部隊を包囲殲滅寸前まで追い込んだ。しかし耶律休哥の決死突撃で宋軍本陣が崩壊。趙光義が驢馬車で逃亡した「驢車戦神」事件が発生し、これ以降皇帝の親征は途絶えた。
982年、契丹は反攻に転じるが満城で大敗。宋軍は崔彦進らが巧みな伏兵戦術で契丹騎兵3万を撃破している。この時期までの戦歴を見れば、宋軍は決して劣勢ではなかった。
986年の雍熙北伐では趙光義の遠隔指揮(現代で言う「マイクロマネジメント」)が災いした。前線の曹彬が独断で進軍し、糧道を断たれて壊滅。撤退途中の楊業戦死で精鋭部隊を失い、北伐能力を喪失した。この敗北は後世「文官が武将を縛る」体制強化のきっかけにもなった。
その後も1003年の君子館の戦いなど激戦が続くが、李継隆や折御卿らの活躍で契丹の南下を阻止。最終的に澶淵の盟(1005年)で宋が年銀10万両・絹20万匹を支払う代わりに国境線を確定した。
この条約締結時点での軍事バランスを見れば、燕雲を失った状況で契丹と互角に渡り合った宋の防衛体制は評価できる。問題はその後の軍備弛緩だ。
宋軍衰退要因分析
要因 |
具体例 |
影響度 |
---|---|---|
文恬武嬉 |
1005-1125年の平和慣れ |
★★★★☆ |
文官統制の強化 |
文官指揮官の戦術ミス多発 |
★★★★☆ |
三冗問題(官・兵・費) |
1040年代の軍事費国家支出70% |
★★★★☆ |
兵士質の低下 |
流民・盗賊の大量採用 |
★★★☆☆ |
特に「三千文の俸給で命を懸ける必要あるか」(当時の禁軍兵士の月給)という意識の蔓延が、西夏との戦いで次々と敗北する要因となった。しかしこれらは全て燕雲十六州喪失という地政学的ハンデが招いた帰結でもある。天然の防衛線がないため常に大軍を維持せざるを得ず、それが国家財政を圧迫する悪循環に陥ったのだ。
もし燕雲を確保できていたら、宋はもっと違った展開を見せたかもしれない。少なくとも初期の宋軍が弱かったという評価は当たらないのである。