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なぜ金国は長江を越えたにもかかわらず南宋を滅ぼせなかったのか?

北宋は急死したようなもので、もし徽宗が2年早く亡くなっていたら、政和・宣和年間は完全な盛世だったと言えるでしょう。徽宗が即位すると蔡京を宰相に起用し、元祐旧党を全て左遷して新党メンバーを登用。王安石の熙豊新法を完全復活させました。延和殿で賜座した際、徽宗は「神宗が法を創り制度を立て、先帝が継承したが二度も変更され、国是が定まらない。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

北宋は急死したようなもので、もし徽宗が2年早く亡くなっていたら、政和・宣和年間は完全な盛世だったと言えるでしょう。徽宗が即位すると蔡京を宰相に起用し、元祐旧党を全て左遷して新党メンバーを登用。王安石の熙豊新法を完全復活させました。

延和殿で賜座した際、徽宗は「神宗が法を創り制度を立て、先帝が継承したが二度も変更され、国是が定まらない。朕は父兄の志を継ぎたいが、卿はどう教えるか」と問うと、蔡京は叩頭して「命尽きるまで尽くします」と誓いました。二年正月には左僕射に昇進しています。

蔡京政権下で塩法と茶法の改革が実施されました。元豊年間の朝廷の塩税収入は年1200万貫に過ぎませんでしたが、政和年間には4000万貫に達し、年間2800万貫以上の増収を実現。茶法も三度改革され、官府の独占収購制度を廃止して売引法を導入し、年間100万貫以上の増収を達成しました。

王安石の新法以来、北宋改革の主目的は財政強化──美辞麗句で言えば「国庫充実」にありました。蔡京時代にこの改革は最終成功を収め、北宋朝廷の財政収奪能力は極限まで高められます。潤沢な財力を背景に、徽宗朝の軍事力も頂点に達し、西では塘羌を撃破して湟州・廓州・鄯州を獲得し青海道を掌握、横山防衛線を蚕食し、幽・薊・涿などの山前六州を回復。領土は北宋建国以来最大となり、女真族の台頭がなければ完全な盛世と言えたでしょう。

これが北宋と南朝陳・南唐・南明などの政権との決定的違いです。後者はまさに天命が尽きた政権で、弘光政権は半壁の山河を保ったように見えても、地方軍隊は軍閥化し行政システムは崩壊。皇帝が実効支配できたのは南京周辺のみで、南京を失えば即崩壊する脆弱さでした。

北宋滅亡時、河北・山東・陕西の大部分、河南・両淮・四川のほぼ全域は依然として朝廷の支配下にありました。金軍が両翼の掃討に時間を要したため、たとえ宗弼が趙構を捕らえても意味をなさず、南宋朝廷に軍再建の時間を与えたのです。

南宋中興四将(岳飛・韓世忠・張俊・劉光世)の事跡を見れば明らかなように、彼らが南方で地盤を固める過程での主敵は女真軍ではなく、偽斉政権や地方農民軍でした。金軍主力は陕西経略と河北・山東義軍の掃討に忙殺されていたのです。

 

項目

元豊年間(年)

政和年間(年)

増加額

塩課収入

1200万貫

4000万貫

2800万貫

茶法改革収入

-

-

100万貫以上


私が常々思うのは、南宋中興への最大功労者は呉玠兄弟ではないかということです。呉玠は南宋最困難期に川陕地域で宗弼軍を4年間食い止めました。もし明末のように河北・山東が一斉に降伏し、陕西・四川も2-3年で失陥していたら、岳飛らが軍備を整える時間などなく、衣冠南渡も北方の緩衝地帯あってこそ可能だったのです。


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