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李世民は後期になぜ李淵を傀儡にできたのか?李淵は建国の皇帝ではないのか?

大きな理由の一つは、李淵の人生経験にある。彼の特殊な人生経験こそが、建国皇帝の中でも異色の性格を形成したのだ。まず李淵の親族関係を見てみよう。彼の伯父(正確には妻の竇氏の伯父)は北周の武帝・宇文邕である。宇文邕の最期はどうだったか?北方統一を成し遂げて間もなく病没し、その後を継いだ息子の北周宣帝は酒色に溺れて5人もの皇后を立てる無能ぶり。宣帝の死後、武帝の孫である静帝は楊堅に帝位を簒奪され、宇文一族は皆殺しにされた。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

大きな理由の一つは、李淵の人生経験にある。彼の特殊な人生経験こそが、建国皇帝の中でも異色の性格を形成したのだ。

まず李淵の親族関係を見てみよう。彼の伯父(正確には妻の竇氏の伯父)は北周の武帝・宇文邕である。宇文邕の最期はどうだったか?北方統一を成し遂げて間もなく病没し、その後を継いだ息子の北周宣帝は酒色に溺れて5人もの皇后を立てる無能ぶり。宣帝の死後、武帝の孫である静帝は楊堅に帝位を簒奪され、宇文一族は皆殺しにされた。

李淵の義父は隋の文帝・楊堅である。北周が滅び隋が建国された時、李淵はわずか16歳。青年期を隋の宮廷で千牛衛大将軍として過ごし、従弟の楊広(後の煬帝)と日夜を共にしながら隋の興亡を目の当たりにした。楊堅の英明倹約と楊広の暴虐奢侈を直接観察したのである。

李淵は父を早くに亡くし、6歳頃に北周時代の唐国公位を継承。北周・隋の高官として、少年期から青年期にかけて北斉の二人の皇帝や陳の後主・陳叔宝が長安に連行される様、西梁王が隋に帰順する姿を目撃している。つまり李淵は少なくとも5つの王朝滅亡(北周・隋・北斉・南梁・南陳)を経験したことになる。

【滅亡王朝一覧表】

 

王朝名

滅亡時期

滅亡時の君主

李淵の関わり

北周

581年

静帝・宇文闡

伯父宇文邕の王朝

618年

恭帝・楊侑

義父楊堅の王朝

北斉

577年

後主・高緯

滅亡時の捕虜を目撃

南陳

589年

後主・陳叔宝

捕虜として長安へ

西梁

587年

蕭琮

帰順の経緯を目撃


こうした経験から、李淵の心理は建国皇帝としては極めて特殊だった。歴代の建国皇帝が強い権力欲を持つ中、李淵は「皇位など数十年の栄華に過ぎず、王朝が滅びれば皇族は虐殺される」と冷徹に見通していた。彼にとって最も重要なのは子女の教育だった。北周武帝や隋文帝が後継者教育に失敗して国を滅ぼした教訓から、権力より家族の繁栄を優先したのである。

その結果、李世民(太宗)のような天下を席巻する文武両道の息子、魏徴や薛万徹を従える李建成、関中平定に活躍した平陽公主といった傑出した子女を育て上げた。これは決して偶然ではなく、李淵が心血を注いだ教育の賜物と言える。

しかし李淵の「兄弟和合」重視の思想は息子たちと根本的に異なっていた。李世民や李建成が「帝位争いで兄弟を殺すこともやむなし」と考えるのに対し、李淵は「数十年しか続かない帝位より家族の絆が重要」と考えていた。この価値観の相違が奇妙な行動を生んだ。

例えば李世民が即位を迫ると、李淵は「すぐに李建成を廃太子にして蜀王に封じ、お前を太子にする」と宥め、さらに追及が激しくなると「唐を二分して兄弟で統治せよ」と提案している。
『新唐書』隠太子伝にはこうある:

「帝曰:『事連建成,恐應者衆。爾自行,還,吾以爾為太子,使建成王蜀,蜀地狹,不足為變,若不能事汝,取之易也。』」

さらに『資治通鑑』によれば、李淵は当初帝位に興味がなく、李世民が裴寂と共謀して隋の妃嬪を李淵に近づけ、謀反を決意させたというエピソードまで記載されている。

「裴寂私以晉陽宮人侍淵...衆情己協,公意如何?淵曰:吾兒誠有此謀,事已如此,當復柰何,正須從之耳。」

晩年に李世民に実権を奪われても抵抗しなかったのは、すでに李建成と李元吉(三男)を失った後、「残された息子とさらに争って人倫の惨事を繰り返す意味がない」と考えたからだ。李世民の有能さを信頼し、「隋の二世代で滅亡するような事態は避けられる」と判断したのである。

李淵は本質的に「皇帝」ではなく、「家庭を大切にする父親」であり「世俗に執着しない任侠」だった。その人生観は波乱の経験から形成された稀有なものと言えるだろう。


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