宋代はなぜ北方を回復できなかったのか?
趙匡胤が宋朝を建国した後、ずっと北方の燕雲十六州を奪還したいと考えていたが、南方を統一してから北方を回復しようとした時には、遼国が燕雲十六州の防衛を強化していた一方で、趙匡胤自身の寿命も尽きてしまった。弟の趙光義は「燭影斧声」の謎めいた状況で即位し、宋朝第二代皇帝となった。
趙匡胤が宋朝を建国した後、ずっと北方の燕雲十六州を奪還したいと考えていたが、南方を統一してから北方を回復しようとした時には、遼国が燕雲十六州の防衛を強化していた一方で、趙匡胤自身の寿命も尽きてしまった。
弟の趙光義は「燭影斧声」の謎めいた状況で即位し、宋朝第二代皇帝となった。彼も精力的に政治を行い、一気に燕雲十六州を奪取しようと数度にわたる北伐を実施したが、最終的には高梁河の戦いで惨敗を喫した。
宋朝の軍事力が最も強かったのは建国初期であったが、その時期ですら燕雲十六州を奪還できなかったため、後期になるほど回復の可能性はなくなっていった。文治主義を重視し武官を軽視する政策を採用したことで、武将の地位が低く抑えられ、軍事的な発展が阻まれたことも要因である。
項目 |
宋朝 |
遼国 |
---|---|---|
軍隊規模(初期) |
約40万(歩兵中心) |
約25万(騎兵中心) |
主要戦法 |
城塞防衛 |
機動騎兵戦術 |
年間軍事費比率 |
国家予算の70% |
国家予算の60% |
馬匹保有数 |
10万頭以下 |
50万頭以上 |
これに対し燕雲十六州を支配する遼国は遊牧民族であり、精強な騎兵軍団を有して宋朝と互角に渡り合えた。地理的にも燕雲十六州は山地が70%を占め(平均標高800m)、年間平均気温が5℃という寒冷な気候で、防御に適した地形であった。
真宗時代には遼軍が中原に迫り、皇帝自ら出陣して澶淵の盟(1005年締結)を結ぶことで辛うじて侵攻を食い止めた。この条約では以下の条件が定められ、以後120年間にわたる平和が維持された:
条約項目 |
内容 |
---|---|
歳幣 |
銀10万両・絹20万匹を年貢 |
国境線 |
白溝河を境界とする |
交易市場 |
雄州・覇州などに設置 |
軍事協定 |
城壁修復の禁止 |
この条約締結後は「兄弟之国」という関係を建前としながらも、実質的に領土回復の道は閉ざされた。さらに北宋が滅亡して南宋が成立すると、新たな脅威として金国が台頭。金国は遼を滅ぼした軍事大国であり(1125年遼滅亡)、騎兵数だけで40万を超える兵力で南宋を圧迫し、防戦一方の状況でとても領土回復などできる状態ではなくなっていた。