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なぜ歩騭は交州の大きな領土を手に入れることができたのに、諸葛亮はできなかったのか?

交州なんて簡単に手に入るものか?前任の交州刺史・頼恭は呉巨に追い出され、その前の張津は配下に殺され、さらに前の朱符は現地の少数民族に討たれたんだ。交州の状況は極めて複雑で、高度な政治手腕と軍事力を兼ね備えていなければ制圧できなかった。孫権が交州を手に入れるチャンスを得たのは、実は劉備との利益交換がきっかけだった。

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交州なんて簡単に手に入るものか?前任の交州刺史・頼恭は呉巨に追い出され、その前の張津は配下に殺され、さらに前の朱符は現地の少数民族に討たれたんだ。交州の状況は極めて複雑で、高度な政治手腕と軍事力を兼ね備えていなければ制圧できなかった。

孫権が交州を手に入れるチャンスを得たのは、実は劉備との利益交換がきっかけだった。劉備が孫権の蜀攻略計画を阻止した代償として、交州攻略の機会を譲り渡したのだ。交州は益州に比べ人口こそ少ないが、物産が豊富で東呉の国力を大きく強化できる可能性を秘めていた。ただし劉備も巧妙な駆け引きを仕掛けており、孫権が容易に成功しないよう仕向けていた。孫権が交州を掌握できたのは、結局は歩騭の政治手腕によるものだった。

まず当時の交州情勢を見てみよう。交州七郡のうち南部五郡は士燮兄弟の支配下にあり、まさに地元のボス的存在だった。建安8年(203年)、曹操は劉表の背後を突くため張津を交州牧に任命。しかし張津は配下の区景に殺害され、劉表が呉巨を蒼梧太守、頼恭を交州刺史として送り込んだ。曹操はこれに対抗し士燮に「綏南中郎将」の称号を与え、七郡を統轄させることに成功した。

建安15年(210年)、歩騭はわずか400人の武射吏を率いて交州へ向かった。前任者たちの失敗例を考えると、この少数兵力での成功は奇跡的だった。歩騭はまず頼恭を利用して呉巨を誘い出し、続いて区景を計略にかけ、両名を斬首することで蒼梧郡を掌握した。その後、南海郡へ進軍し士燮の弟・士武の死に乗じて勢力を拡大。最終的に交州の中心を番禺(現在の広州市)に移し、広州城の基礎を築いたのである。

【交州掌握過程の主要データ】

 

時期

主な出来事

兵力

戦果

203年

張津が交州牧に就任

不明

劉表への牽制開始

208年

呉巨が頼恭を追放

5,000人(呉巨軍)

蒼梧郡掌握

210年

歩騭の交州入り

400人(武射吏)

呉巨・区景を討伐

211年

南海郡攻略

20,000人(自称)

戦船100隻建造

215年

士燮が公式に帰順

-

年300種以上の貢物


特に注目すべきは歩騭の兵力運用だ。高要峡口の戦いでは衛毅・銭博連合軍を撃破し、1,000人以上を水死させた。『交広春秋』によると、この時建造した戦船は100隻に及び、当時の交州における最大規模の水軍だったという。士燮からの貢物リストも特筆もので、明珠・大貝・翡翠・象牙に加え、貴重な南方果物(バナナ・リュウガンなど)が毎年届けられていた。

ただし数字の信憑性には注意が必要だ。歩騭の「2万の兵力」は誇張の可能性が高く、実際は蒼梧郡の人口(当時約5万戸)から考えて5,000人程度だったと推測される。士燮が送った軍馬「数百匹」という記録も、当時の交州の馬産地としての実態(主に雲南方面からの転売)を考慮する必要がある。

最終的に孫権は陸績を鬱林太守に任命し、士燮との二重支配体制を確立。この巧みなバランス感覚が、後の呂岱による完全制圧(士徽の反乱鎮圧)へとつながっていく。交州掌握の過程は、単なる武力制圧ではなく、情報操作・同盟関係の構築・地元勢力との妥協が複雑に絡み合った、三国時代ならではの権謀術数の傑作と言えるだろう。


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