アリク・ブケはなぜクビライに敗れたのか?
アリク・ブケがフビライに敗北した理由は資源不足にあった。トゥルイには11人の息子がいたが、正妻ソルコクタニ・ベキが生んだのは4人: モンケ、フビライ、フレグ、アリク・ブケ。1259年8月11日、モンケが釣魚城攻撃中に負傷して死去。
アリク・ブケがフビライに敗北した理由は資源不足にあった。
トゥルイには11人の息子がいたが、正妻ソルコクタニ・ベキが生んだのは4人: モンケ、フビライ、フレグ、アリク・ブケ。
1259年8月11日、モンケが釣魚城攻撃中に負傷して死去。この時: アリク・ブケ:ハラホリンでクリルタイ開催準備中(モンゴル帝国ハーン継承) フビライ:鄂州で南宋と交戦中。
フビライの妻チャブイ皇后が急使を派遣し、アリク・ブケの計画を伝達。フビライは主力部隊を引き上げて北上開始。
南宋の賈似道がフビライ軍撤退後の隙を突き、留守部隊を奇襲撃破。これが南宋の抗戦継続の契機に。
1260年春、フビライは開平に帰還。5月5日に緊急クリルタイを開催しハーン即位。ただし主要モンゴル貴族の参加がなく正統性に疑問符。
1ヶ月後、アリク・ブケがハラホリンで正統クリルタイを開催しハーンに推戴。両者の帝位争いが本格化。
【初期勢力比較表】
項目 |
アリク・ブケ陣営 |
フビライ陣営 |
---|---|---|
支持勢力 |
キプチャク汗国・チャガタイ汗国 |
イル汗国(名目上) |
支配地域 |
漠北草原・西域西部 |
旧金朝領・西夏・吐蕃・雲南 |
人口 |
約150万(遊牧民中心) |
約4500万(農耕地帯含む) |
年軍糧調達量 |
20万石以下 |
300万石以上 |
交易路 |
シルクロード西側分断 |
大運河・江南ルート掌握 |
軍事力 |
精鋭騎兵10万 |
混成軍30万(漢人歩兵含む) |
アリク・ブケは当初優勢だったが、フビライが実施した経済封鎖が決定的打撃に:
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中原物資の完全遮断
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甘粛・東北・ウイグル地域の通行禁止
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塩の供給停止(遊牧民の生命線を断つ)
1262年、チャガタイ汗国のアルグが支援停止。アリク・ブケ軍の補給状況が悪化:
食糧備蓄推移(ハラホリン)
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1260年:50万石
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1261年:32万石
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1262年:8万石
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1263年:1.2万石(降伏時)
1263年、アリク・ブケは降伏。1266年に獄中死(毒殺説あり)。その後裔では:
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玄孫アルク・バがイル汗国ハーンに短期擁立
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北元天元帝を殺害したエスデルも末裔と推定
モンゴル帝国分裂の根本原因は「クリルタイ制度」にあり:
歴代ハーン継承問題年表
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1227:チンギス没 → オゴデイ指名
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1241:オゴデイ急死 → グユク即位にバトゥが反発
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1248:グユク急死 → トゥルイ家が実権掌握
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1259:モンケ戦死 → フビライvsアリク・ブケ
フビライの勝利要因は「漢地経営」にあり:
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中統元宝交鈔(紙幣)発行で経済掌握
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中書省設置(伝統的中国行政システム導入)
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科挙の一部再開(士大夫層の懐柔)
一方で、フビライ政権の弱点も顕在化:
モンゴル貴族の支持率比較(1264年時点)
ハーン候補 |
支持氏族数 |
兵力動員力 |
---|---|---|
アリク・ブケ |
38氏族 |
8万騎 |
フビライ |
12氏族 |
3万騎(漢人軍含む) |
1303年に元朝が諸汗国から正式承認されるまで、モンゴル帝国の分裂状態は継続。この内紛構造は現代まで続く草原地帯の権力闘争の原型となった。結局のところ、アリク・ブケが「票」を、フビライが「銭」を握っていたが、経済力が人的結束を凌駕した事例として歴史に刻まれることになる。