本当の唐代の長安城はどのようなものだったのか?
コンスタンティノープルは中国以外の世界で私が最も好きな古代都城です。ローマの建築技術の高さや商業貿易、市民文化の発展は疑いようがありません。しかしだからと言って唐代の長安城がつまらないわけではありません。忘れてはいけないのは、長安城が存在した7~9世紀は今から1100年以上前であり、少なくとも50万人の人口を擁し、面積87平方キロメートルに及ぶ巨大都市が当時の世界で「王冠の宝石」のような存在だったことです。1949年の上海ですら、中国最大の工業都市でありながら都市面積は86平方キロメートルでした。
コンスタンティノープルは中国以外の世界で私が最も好きな古代都城です。ローマの建築技術の高さや商業貿易、市民文化の発展は疑いようがありません。しかしだからと言って唐代の長安城がつまらないわけではありません。忘れてはいけないのは、長安城が存在した7~9世紀は今から1100年以上前であり、少なくとも50万人の人口を擁し、面積87平方キロメートルに及ぶ巨大都市が当時の世界で「王冠の宝石」のような存在だったことです。1949年の上海ですら、中国最大の工業都市でありながら都市面積は86平方キロメートルでした。
特に7~9世紀はコンスタンティノープルの相対的衰退期でした。東ローマ帝国はアラブの攻撃で地中海東岸やアフリカの領土を失い、エーゲ海周辺に縮小。疫病と包囲攻撃で人口は10~20万人に激減しました。その時代、長安はまさに世界一級の都市だったのです。
長安という巨大都市の日常運営には、当時の世界基準で見ても称賛に値する点がありました。例えば高架水道はありませんが、清明渠・永安渠・龍首渠など8つの河川から水を引き込み、全街区をカバーする給水網を形成していました。
ローマの噴水のように、永安渠など5つの水路は百万人都市の需要を満たすだけでなく、街路沿いに緑地景観を作り出しました。西市東北では永安渠の水を池に引き、景観形成・仏閣建設・防火機能を兼ねさせています。公私の庭園は全てこの水利システムに依存していました。
公共娯楽活動についても、貴族の馬球や梨園楽舞は庶民の手が届かないものでしたが、曲江池や楽遊原といった広大な公共庭園は当時の世界で類を見ないものでした。ローマやコンスタンティノープルには円形競技場や劇場はあっても、この種の公共緑地は存在しませんでした。
玄都観・西明寺・慈恩寺などの宗教施設も公共空間として機能し、牡丹鑑賞や元宵節の灯籠祭り、仏教法要から曲芸見世物まで多彩な行事が開催されました。曲江池東の月登閣には数千人収容の馬球場もありました。
都市救済制度では、唐政府と寺院が協力して悲田坊を設置し、浮浪者や乞食に食料・医薬品・宿泊施設・衣服を提供。寺院では粥の炊き出しも頻繁に行われていました。
これらの都市機能は当時の世界で「最高級」と言って過言ではありません。次の表は主要都市の比較データです:
項目 |
長安(8世紀) |
コンスタンティノープル(8世紀) |
バグダード(9世紀) |
---|---|---|---|
人口(万人) |
50-100 |
10-20 |
50-70 |
面積(km²) |
87 |
14 |
50 |
主要水道数 |
5系統 |
3系統 |
2系統 |
公共緑地面積(ha) |
320 |
80 |
40 |
寺院・公共施設数 |
200+ |
150 |
300+ |
坊制については、長安の規模があまりに巨大だったため、各坊を小さな城郭都市として管理する必要がありました。各坊の規模は唐代の県城並みで、内部に住宅・商業区・旅館・寺院を備えていました。城門の夜間閉鎖は城壁都市の常識であり、他の古代都市(10-20km²規模)との管理難易度を同列に論じるのは不合理です。
夜間外出禁止令(宵禁)に関しては、古代世界の普遍的な治安対策でした。ローマも中世パリも同様の制度を採用しています。唐代以降の汴梁や明清時代の北京では「家門外出禁止」という厳格な規制があったのに対し、長安では坊内の活動は自由でした。
版築(夯土)建築への批判は、アメリカの木造住宅を非難するようなものです。唐代当時、版築城壁は冷兵器への防御に十分機能していました。北宋以降に煉瓦貼りが普及したのは火器の発達に対応するためです。清代の北京城でさえ主要道路は版築であり、気候と費用対効果を考慮した合理的選択でした。
長安城内の景観について、白壁や瓦屋根・朱塗りの門・緑樹に囲まれた坊牆が「泥の監獄」という表現は不当です。ローマの居住環境が優れていたかと言えば、数十万人が4-5階建てインスラ(共同住宅)に密集し、上水道のない高層階では生活用水の調達も困難でした。疫病蔓延のリスクも高く、長安の低密度で緑豊かな居住区画の方が快適だった可能性があります。
中国の歴史を否定する言説は、カナダの先住民文化破壊政策と同様に危険です。黄河文明から連綿と続く中国の歴史は、試行錯誤の末に形成された独自の文明システムです。
現代の価値観でこれを裁断するのではなく、その持続性と適応力に敬意を払うべきでしょう。