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遼朝と金朝の統治下にある漢民族はなぜ南渡して宋朝に投靠しなかったのか?

南宋にとって、これらの人々を安置するには土地と金が必要だった。宋朝の国有地比率は全国の土地の中で微々たるもので、残りの私有地の大半も各地の大地主たちの手に握られていた。「誰の金で、誰の土地を使ってこれらの人々を安置するつもりなんだ? もちろん、思い切って江南の大地主階級に奴隷として売り飛ばす手もあるさ」という状況だった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

南宋にとって、これらの人々を安置するには土地と金が必要だった。宋朝の国有地比率は全国の土地の中で微々たるもので、残りの私有地の大半も各地の大地主たちの手に握られていた。「誰の金で、誰の土地を使ってこれらの人々を安置するつもりなんだ? もちろん、思い切って江南の大地主階級に奴隷として売り飛ばす手もあるさ」という状況だった。

趙官家(皇帝)は基本的に、自分を支持する政治基盤の政策を忠実に実行していたからこそ、この政権は長く存続した。元軍が南下し、彼らがより良い寄生先を見つけるまで、南宋は持ちこたえたのである。

以下に主要な土地集中データをまとめる:

 

人物・地域

数値データ

補足説明

溧水县石臼・固城湖

圩田約10万畝(約6667ヘクタール)

永豊圩と呼ばれ全長84里(約42km)

張俊(武将)

年収:租米60万斛

占地面積60~70万畝(4~4.7万ヘクタール)

秦檜の子孫

年収租米10万石

「没落後」でもこの規模

曹夢炎(松江)

澱山湖周辺の湖田数万畝

蓄粟100万石、「富蛮子」と称される

瞿霆発(松江)

私有地+官田合計1万頃(10万畝)

「多田翁」の異名

福建崇安県

税糧6000石中5000石が大地主50家

全耕地の83.3%を占める


宋の南遷後、皇帝・貴族・官僚・武将・地主・商人が土地併合の狂乱を起こした。大地主の年収10万石はもはや珍しくない。例えば永豊圩は当初官有地だったが、蔡京→韓世忠→秦檜と献上され、一度の下賜で10万畝という規模。秦檜は金陵に永寧荘・荊山荘などを保有し、子孫ですら年10万石の収入を維持。張俊に至っては引退後も年60万斛の租米を稼ぎ、接駕の際には金器1000両・真珠6万9000顆・瑪瑙碗20点を献上する豪勢ぶりだった。

法的には、北宋初期は地主が小作人を殺しても特別法がなく、元祐年間に「減罪一等(隣州流刑)」、南宋紹興元年に「更に一等減(本州流刑)」と改悪され、1190年には小作人の訴訟権まで剥奪された。ある事例では、官僚の未亡人が「風水を乱された」と訴えると、役人は「主従の分際を忘れた」として小作人兄弟を厳罰に処し、「地主が遠方にいても土地を守れぬなら官吏の存在意義はない」とまで言い放った。

元軍南下時、フビライは江南の富を温存する方針を採ったため、南宋滅亡後も地主勢力は存続。蒙古・色目人官僚は現地の富豪に操られる存在で、『元典章』によれば「役人到着後、贈賄で籠絡され、兄弟の契りを結ぶ」状態。松江の曹夢炎はモンゴル人から「富蛮子」、瞿霆発は「多田翁」と呼ばれ、福建崇安県では50大地主が全税糧の5/6を占めた。趙天麟が指摘したように「爵位なくして封君の富、印章なくして官府の権力」を振るったのである。

朱元璋が『大明律』制定で「小作人の訴訟権復活」「地主の致死罪適用」を定めたことで、農民は240年ぶりに漢唐時代の法的地位を取り戻した。この数字は南宋建国(1127年)から明朝成立(1368年)までの年月を正確に反映している。


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