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元王朝はなぜ短期間で滅亡したのか?

中学生だった頃、歴史の教科書にはまだ元朝の四等級制度が載ってた。簡単に言うとモンゴル支配者が国民を貴賎で四段階に分けたって話で、トップが当然モンゴル人、第二が色目人(西域や中央アジアの民族+一部契丹人)、第三が漢人(金や西夏領内の漢人・女真・契丹)、最下層が南人(南宋遺民で民族問わず)ってやつだ。この制度は絵空事じゃなかった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

中学生だった頃、歴史の教科書にはまだ元朝の四等級制度が載ってた。簡単に言うとモンゴル支配者が国民を貴賎で四段階に分けたって話で、トップが当然モンゴル人、第二が色目人(西域や中央アジアの民族+一部契丹人)、第三が漢人(金や西夏領内の漢人・女真・契丹)、最下層が南人(南宋遺民で民族問わず)ってやつだ。

この制度は絵空事じゃなかった。例えば『大元聖政国朝典章』にはっきり書かれてて、モンゴル人が漢人や南人を殺しても杖57回+葬儀費用支払いで済むのに、逆だと即死刑+全財産没収って差別が公然と行われてた(『元典章・巻四十二・刑部諸殺』)。要するに「差別だぞ、文句ある?」って開き直り状態。

でも今の教科書でこれ教えなくなったらしい。理由は「史料に明確な法的根拠が見つからない」ってこと。モンゴル人による差別は事実としても、正式な法令として残ってないから「証拠不十分」扱いなんだ。実際に四等級制度って概念を最初に提唱したのは明末清初の屠寄が書いた『蒙兀児史記』で、元朝から数百年後に漢人が後付けで分類したものだから、説得力に欠けるってわけ。

実は元史をちゃんと調べると、モンゴル人が差別してたのは漢人だけじゃない。権力も富もない弱者なら誰でも苛烈な搾取対象で、その残忍さは空前絶後だった。貧乏で弱い立場なら同族のモンゴル人ですら容赦なく地獄に突き落としてたんだ。

元朝が建国後、あれだけユーラシアを席巻したモンゴル軍が急に弱体化した理由の一つは、貴族どもが兵士まで奴隷同然に扱ったから。勇士が減って奴隷が増えれば、百年持たないのは当然の成り行きだった。

逆に金持ちや権力者なら最下層の南人でもモンゴル人奴隷を数千人抱えられた。モンゴル貴族はむしろ同族売買をビジネスチャンスと捉え、ヨーロッパやアフリカまで販路を広げてたほど。要するに近現代以前の差別問題を民族で説明しようとするより、階級や利益で見た方がスッキリ理解できるって話だ。

【主要データ比較表】

 

項目

モンゴル

イギリス

囲い込み面積

伯顔個人で200万畝(約13万ha)

650万エーカー(2.63万km²)

1647-1685年で300万畝

奴隷取扱い

奴隷=家畜(駆口)

契約制使用人

包衣制度

通貨暴落率

50年で25倍(大元宝鈔)

18世紀インフレ率2-3%

順治通宝ほぼ安定

兵士自弁費用

戦馬・武器・食糧全額自己負担

国家支給制

八旗制度(給与制)

皇族内紛頻度

11皇帝中9人が非業死

王位継承戦争数回

九子奪嫡事件1件


(出典:『元史』『宋史』『明実録』『世界経済史』)

囲い込みと言えばイギリsの囲い込み運動(羊が人を食う)が有名で、18-19世紀に国土の20%にあたる2.63万km²を独占。次いで清の囲い込み令(主に河北・遼寧)が挙げられるが、モンゴル人から見れば子供騙しレベルだった。末期の権臣伯顔が10年で200万畝(約13万ha)を独占した例を見れば明らかで、これは清が38年かけて皇族全体で達成した300万畝に匹敵する規模だ。

チンギス・カンから代々続く弘吉剌氏に至っては、元朝98年間のうち93年で皇后を輩出し、長城から武夷山まで国土の7-8割を支配下に置いた。朱元璋が元を滅ぼした時、没収した土地の過半数が弘吉剌氏名義だったというから、その権勢のほどが窺える。

土地の囲い込みが完了すると、次は人間の搾取が始まる。免税特権を持つ貴族が増えるほど、平民の税負担は増加。元末期には10年先まで前納させる強行策まで登場し、朱元璋が洪武年間に徴収予定だった分まで先取りする有様だった。

金融政策も苛烈を極め、1260年発行の大元宝鈔は50年で25倍のインフレを引き起こし、「羊羔息」という官製高利貸しは10年で1024倍の利息をふっかけた。これでは農民反乱が頻発するのも当然で、元朝ほど継続的に民衆が蜂起した時代は他にない。

モンゴル軍制の根本的矛盾は、遊牧民族特有の「略奪経済」に依存していた点にある。中原支配が定着すると略奪先がなくなり、自前で装備を調達する兵士の負担が限界突破。1303年の記録では、山東・河南のモンゴル軍戸が遠征費用捻出のため妻子を売る事例が頻発し、国防力が空洞化していた実態が明らかになっている。

駆口(奴隷)制度においては、『元典章』で牛を殺すと杖100回なのに、奴隷殺害は杖170回で済むという法的不平等が公式に規定されていた。実際の判例では、妊娠中の女奴隷を殺したモンゴル人への罰がわずか27回の杖刑だった事例(刑部第四巻)もあり、司法の形骸化が顕著だった。

驚くべきはモンゴル人自身が最大の被害者だった事実だ。至元2年(1265年)の調査では兀魯帯部族の75%が奴隷状態にあり、至順年間の鎮江ではモンゴル人592人中429人(73%)が駆口として登録されていた。海外への人身売買が深刻化し、1291年には泉州から中東・インド方面へのモンゴル人奴隷輸出を禁じる勅令が出るほどだった。

元仁宗時代には国家が奴隷の買戻しを試みるが、1年で1万戸を処理しただけで財政破綻。末期には軍隊の実戦能力が完全に失われ、朱元璋軍にモンゴル人兵士が多数参加するという皮肉な状況が生まれた。
モンゴル帝国崩壊の根本原因は民族差別ではなく、階級を超えた徹底的な搾取構造にあった。権力者にとって同胞ですら金儲けの道具でしかない社会では、最早誰も国を守る理由などなかったのだ。


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