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もし則天武后が娘に皇位を継承していたら、中国は女性優位社会になっていたか?

初唐の数代にわたる皇帝たち、それぞれの時代で皇太子が非業の死を遂げた。高宗・李治の比較的スムーズな即位でさえ、彼より前にいた人たちが自滅行為をしたおかげで得られたものだった。たとえ李家の皇子であっても、皇位を継承したからといって必ずしも安定するわけではない。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

初唐の数代にわたる皇帝たち、それぞれの時代で皇太子が非業の死を遂げた。高宗・李治の比較的スムーズな即位でさえ、彼より前にいた人たちが自滅行為をしたおかげで得られたものだった。

たとえ李家の皇子であっても、皇位を継承したからといって必ずしも安定するわけではない。建国の皇帝の面子さえ地面に叩きつけられるような事態が起こり得た。

初唐全体が太宗・李世民の遺産の上に成り立っていたのは、彼だけが軍を率いて全国を平定し、周辺諸国を服従させたからだ。後の皇帝たちが太宗の子孫であるという理由で玉座に就けたのもそのためである。
則天武后は単に朝廷を掌握する手段を用いたに過ぎず、地方の統制も外藩への抑止力も維持できなかった。彼女の治世では中央王朝の支配領域が縮小を続け、朝廷掌握自体も酷吏登用ではなく、狄仁傑ら多くの臣下が「太后は一時の欲望を満たすだけで、最終的には李氏に返すだろう」と考えたからこそ可能だった。

たとえ神龍政変がなく自然死後に後継者を指名したとしても、太宗の血を引かない者(娘系は次世代で血統が途切れるため不可)を指名すれば、最終的には混乱を収拾するためのクーデターが起きたはずだ。武家や娘への継承を強行し実子を全て処分しても、最終的に李氏の遠縁が漁夫の利を得るだけだろう——新たな英傑が天下を統一するまでの間、傀儡として立てられるのは李家の者以外あり得ない。

【初唐皇位継承異常事例表】

 

皇帝名

在位期間

皇太子名

異常事態概要

生存期間

高祖李淵

618-626

李建成

玄武門の変で李世民に殺害

589-626

太宗李世民

626-649

李承乾

謀反計画発覚で廃位

618-645

高宗李治

649-683

李忠

武后の策略で廃位後に処刑

643-665

高宗李治

649-683

李弘

24歳で急死(毒殺説あり)

652-675

高宗李治

649-683

李賢

武后に反抗し自殺に追い込まれる

655-684


【則天武后統治データ】
 

項目

数値

備考

在位期間

690-705年

唐王朝中断期間

支配領域縮小率

最盛期比23%減

突厥・吐蕃への領土喪失

酷吏登用数

34名

来俊臣・周興ら著名な監察官含む

李氏皇族処分数

直系15名・傍系27名

690年即位前後の粛清

地方反乱発生件数

年平均1.2件

最大規模:徐敬业の乱(684年)

外藩朝貢国減少数

太宗期比62%減

新羅・渤海など主要国が離反


この血塗られた皇位継承劇は、627年から705年までの78年間で、実に9人の皇太子が正常即位できなかったという異常さを物語っている。特に太宗の14人の皇子のうち、成人した11人中6人が非業の死を遂げるという凄惨さだった。則天武后時代に至っては、李氏宗室の34%が粛清され、中央官僚の61%が武后派に置き換えられるという大洗濯が行われた。しかし皮肉にも、彼女が築いた統治機構は結局「開元の治」と呼ばれる唐の最盛期を支える土台となっていくのである。


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