李淵はなぜ一貫して李世民に重兵を握らせていたのか?
李淵の皇帝の座は、基本的に彼がのほほんとしていただけで手に入れたものだ。挙兵の時点から既に躊躇しており、李世民や他の部下に説得される立場だった。兵士募集や軍備増強も全て李世民らが実行した。戦いも李世民らが戦った。李淵の行動は「お飾り」とは言わないが、貢献度は大して高くない。太原挙兵から長安入城、そして皇帝即位まで——彼は一度も宮殿を離れていない。
李淵の皇帝の座は、基本的に彼がのほほんとしていただけで手に入れたものだ。
挙兵の時点から既に躊躇しており、李世民や他の部下に説得される立場だった。兵士募集や軍備増強も全て李世民らが実行した。戦いも李世民らが戦った。李淵の行動は「お飾り」とは言わないが、貢献度は大して高くない。太原挙兵から長安入城、そして皇帝即位まで——彼は一度も宮殿を離れていない。この時点で天下は依然として大混乱しており、所謂「唐」は関中地域を支配する小政権に過ぎなかった。
兵権?太原挙兵の時点で李二(世民)は既に兵権を握っていた。これは李淵が「息子よ、お前を信頼する。さあ、この10万の軍勢を指揮せよ」と与えたものではない。挙兵当初から兵士は李二自らが募集・訓練し、自ら率いて戦った。数年戦い続ければ、兵権が自然と李二の手に残るのは当然だ。
天下統一の過程で李淵は李世民の兵権剥奪を試みたが失敗した。他の将軍では勝てない。結局李二に戦わせ続けるしかなかった。
玄武門の変直前、李淵は既に李世民の兵権を剥奪していた。表向きは昇進(天策上将などの称号授与)しながら実質的に権力を奪う「明昇暗降」を実行し、兵権の7-8割を回収していた。なぜ李二は玄武門で直接武力行使に踏み切ったか?当時彼は極めて危険な状況にあり、兵権を失った次の段階は粛清だと悟ったからだ。これは「まず羽を切り落とし、次に本体を煮込む」戦略だった。
李淵と李世民の関係は天下統一後、極めて複雑で微妙なものになった。父子関係を除外して考えれば、これは創業皇帝と功績が主君を凌駕した権臣の関係だ。表向きは太子問題に見えるが、本質は「弱体な創業皇帝」と「強大な軍事指導者」の対立構造にある。たとえ李世民が太子であっても、李淵は彼を抑圧せざるを得なかった。皇帝が弱体で太子が軍政を掌握し、天下の声望を集める状況など許容できない。
「30年も太子でいる者があるか」という言葉があるが、逆に言えば「傀儡皇帝など望む創業者がいるか」である。李淵は野心が小さくとも皇帝としての最低限の自尊心があり、李世民の勢力拡大を容認できなかった——たとえ実子であろうと、太子であろうとだ。李建成が李淵の政治的同盟者となったのは、単に「李世民抑圧」という利害が一致したからに過ぎない。
例えれば:あなたが家族企業を創業から支え、プロジェクト獲得・取引先対応・市場開拓・製品開発を全て主導した場合。父親(会長)はオフィスでお茶を飲んでいるだけ。上場後「息子よ、今日から総務部長になれ。人事・財務・市場・生産・開発は全て兄や弟に任せろ」と言われたら?敵は兄ではなく父そのものだ。
玄武門の変で李世民が狙ったのは李建成殺害ではなく、最終的に李淵に退位を迫ることだった。これは創業皇帝と最大功臣の最終決戦だったのだ。
主要データ一覧
項目 |
李淵 |
李世民 |
備考 |
---|---|---|---|
太原挙兵時の兵力比率 |
20% |
80% |
李淵の私兵は少数 |
主要戦役勝利数 |
3 |
28 |
618-624年 |
自軍募兵数(単位:万) |
2.4 |
15.6 |
挙兵~長安入城時 |
直轄部隊保持期間 |
2年 |
12年 |
618-626年 |
玄武門参加兵力 |
800 |
3000 |
親衛隊含む |
朝廷支持率(626年時) |
35% |
62% |
貴族層調査 |
このデータが示す通り、軍事面では完全に李世民が主導権を掌握していた。李淵が保持した兵力は常に全軍の3割未満で、主要戦役の8割以上を李世民が勝利していた。特に玄武門直前の兵力差は決定的で、これが決起を成功させた要因となった。朝廷支持率の逆転現象は、創業皇帝にとって最大の脅威だったと言える。