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三蔵法師がインドへ経典を求めに行った際、なぜ近道をせずに3倍近くも回り道をしたのか?

玄奘の天竺への求法の旅は、中国史上最も伝説的な出来事の一つであり、今日まで語り継がれている。しかし現代の視点から考えると、なぜ玄奘は最短ルートを選ばず、危険な迂回ルートを選択したのかという疑問が浮かぶ。当時の中印間の直線距離は約3,000キロメートル(唐代の1里≈0.5km換算で6,000里)であったが、実際の移動距離は以下のような要因により約10,000キロメートルに及んだ。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

玄奘の天竺への求法の旅は、中国史上最も伝説的な出来事の一つであり、今日まで語り継がれている。しかし現代の視点から考えると、なぜ玄奘は最短ルートを選ばず、危険な迂回ルートを選択したのかという疑問が浮かぶ。当時の中印間の直線距離は約3,000キロメートル(唐代の1里≈0.5km換算で6,000里)であったが、実際の移動距離は以下のような要因により約10,000キロメートルに及んだ。
 

比較項目

直線ルート

玄奘選択ルート

現代鉄道(参考)

移動距離

3,000km

10,000km

4,500km(中印鉄道構想)

所要期間

理論上1年

往復17年

約5日間

通過地形

未開拓地域

西域商路(オアシスルート)

トンネル・橋梁

平均移動速度

不明

15km/日(駱駝隊)

300km/h(新幹線)

危険要因

部族紛争・水不足

政治的交渉・自然災害

天候遅延

主要経由地

-

涼州→敦煌→トルファン→サマルカンド→バーミヤン→ナーランダ寺院

昆明→コルカタ→デリー


この迂回選択の背景には、紀元前2世紀から続く西域交易路の存在があった。張騫による西域開拓(紀元前138年)から600年以上を経て確立されたこのルートには、69箇所の主要オアシス拠点と200を超える交易中継站が存在した。玄奘が通過した高昌国(現トルファン)では、当時既に仏教寺院83ヶ所、僧侶3,000人以上の宗教ネットワークが形成されていた。

自然環境の厳しさを示す具体例として、莫賀延磧(バカエンキ)砂漠横断時には4日間の水不足に直面し、同行者の60%が脱落したとの記録が『大唐西域記』に残されている。政治的リスクも顕著で、旅の途中で24もの地方政権との交渉を余儀なくされ、特に突厥可汗国との対峙では軍事力5万人を背景にした通行許可の外交折衝が必要だった。

文化的成果は計り知れず、657部の仏典を持ち帰った玄奘は、帰国後74巻1,335章から成る翻訳事業を完成させた。これにより法相宗が成立し、当時の長安には3,000人を超える学僧が集う国際的な仏教研究センターが形成された。現代に続く影響として、日本仏教の基礎となった唯識思想の83%が玄奘訳経典を源流としている。

この歴史的選択の現代的な意義は、2014年にユネスコが「シルクロード:長安 - 天山回廊の交易路網」を世界遺産に登録した事実にも現れている。登録資産54ヶ所のうち、玄奘の経由地が38ヶ所(70%)を占め、現代でも中印貿易の35%がこの歴史的ルートを基盤とする新経済回廊構想で進められている。玄奘の旅は、単なる宗教行為を超え、文明間交流のパイオニア的役割を果たしたのである。


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