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唐の滅亡時の惨状はどれほどだったのか?

西暦907年、若き唐の哀帝は皇権の象徴である伝国の玉璽を抱え、低頭して禅譲の詔書に署名した。これにより、約300年の輝かしい歴史を誇った大唐王朝は終焉を迎えた。しかし哀帝は平穏な晩年を待つことは叶わなかった。彼の兄弟たちは既に絞殺され黄河に投げ捨てられており、彼自身も冷たい毒酒を飲む運命が待ち受けていた。この禅譲劇の背景には、血と陰謀が絡み合った権力闘争があった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

西暦907年、若き唐の哀帝は皇権の象徴である伝国の玉璽を抱え、低頭して禅譲の詔書に署名した。これにより、約300年の輝かしい歴史を誇った大唐王朝は終焉を迎えた。しかし哀帝は平穏な晩年を待つことは叶わなかった。彼の兄弟たちは既に絞殺され黄河に投げ捨てられており、彼自身も冷たい毒酒を飲む運命が待ち受けていた。

この禅譲劇の背景には、血と陰謀が絡み合った権力闘争があった。長安遷都に伴う民衆の慟哭から昭宗暗殺、九皇子殺害事件まで、朱温は障害を次々に排除し、ついに帝位に就いた。かつて隆盛を極めた唐王朝は、廃墟と無念の亡霊たちだけを残して消滅した。

 

主要事件データ表
 

西暦

事件内容

関係者

被害規模

875年

蝗害発生

京兆府官僚

農地被害面積5万ヘクタール

880年

黄長安入城

黄巢軍60万

占領都市数38都市

882年

朱温投降

朱温(全忠)

降伏兵力5万

904年

長安破壊

朱温

解体建物数3万棟

907年

哀帝禅譲

哀帝李柷(17歳)

唐皇室生存者0名


なぜこのような壮絶な形で盛世が終焉を迎えたのか。長安の廃墟や洛陽の毒酒に、いかなる血生臭い物語が隠されていたのか。

西暦875年、長安に災厄が降り注いだ。東方から押し寄せた遮天蔽日の蝗の大群が、通過した地域の作物を瞬時に食い尽くした。民衆が困窮する中、京兆府は「蝗は作物を食わず、自ら荊棘に抱きついて死んだ」と虚偽の報告を行い、五穀豊穣の吉兆だと主張した。

この荒唐無稽な説明に朝廷百官は同調し、宰相までが皇帝に祝辞を述べた。しかしこの「暗雲」が唐王朝を崩壊へと追いやる最後の一撃となった。

当時の僖宗は闘鶏や馬毬に耽溺し、官僚たちは責任を回避して災害対策を怠った。治水施設の老朽化と連年の洪水により、飢饉は急速に拡大。数万の民衆が生活の糧を失い、至る所で嘆きの声が上がった。絶望の中、一部の人々は危険を冒して反旗を翻し、その中で最大規模となったのが黄巣と王仙芝率いる反乱軍だった。

黄巣は普通の農民ではなく、幼少期から科挙受験のために学問を修めていたが、度々落第した。失望の末、同じく不満を抱く王仙芝と共に蜂起し、当初は山東地域で食糧倉庫を開放して民衆の支持を集めた。勢力を拡大すると、黄巣は軍を率いて南下し、長江を渡り浙東を攻略し、最終的には広州に到達した。

 

黄巣軍進撃データ表
 

進軍年

通過地域

兵力増加数

占領都市

875年

山東省

3千→5万

6都市

878年

江西省

8万→15万

12都市

879年

広東省

20万→30万

9都市

880年

湖北省

50万→60万

18都市


南部の豊かな土地は反乱軍に息をつかせる機会を与えたが、黄巣は長居しなかった。唐王朝を真に打倒するには長安を直接攻撃する必要があると悟ったからだ。

西暦880年、黄巣は60万の大軍を率いて潼関に到達した。奇妙なことに長安城は予想されたような抵抗を見せなかった。民衆が城門を開いて歓迎する中、黄巣は無血入城を果たし「大斉」を建国して皇帝を称した。しかし長安を手中に収めても安泰とはならなかった。

兵士への給与不足と食糧危機により士気は低下し、反乱が頻発。黄巣の支配はわずか4年で終わりを告げ、唐軍に敗れた彼は泰山狼虎谷で戦死した。この10年間の戦乱は民衆の運命を変えるどころか、かえって唐王朝の基盤をさらに弱体化させた。そして黄巣の背後では、反乱軍から離脱した武将朱温が血に染まった大地を踏みしめながら、静かに歴史の表舞台に登場しようとしていた。


「裏切り者朱温」


西暦882年、黄巣配下で威勢を振るっていた朱温は反乱軍に未来を見出せず、唐への投降を選択した。この裏切りは黄巣を激怒させたが、僖宗は大いに喜び「朱全忠」の名を賜り、左金吾衛大将軍の称号を与えて重用した。

これ以降、朱温は唐が反乱軍を平定するための重要駒となった。しかし重兵を握るこの将軍が唐への忠誠に満足するはずもなかった。彼は戦場でかつての戦友を虐殺しながら、自らの勢力範囲を拡大していった。


朱温勢力拡大表
 

年号

支配地域

兵力

収入源

885年

汴州周辺

3万

塩専売

890年

河南全域

8万

関税徴収

895年

河北南部

12万

土地税

900年

山東西部

20万

戦利品


西暦885年、黄巣が泰山で敗死すると農民反乱は完全に失敗に帰し、朱温は中原の重要地域を掌握して朝廷内で無視できない権臣となった。

しかし朱温の野心はこれにとどまらなかった。彼は「天子を奉じて諸侯を令す」という策略を深く理解し、僖宗崩御後に即位した昭宗の操縦を開始した。西暦902年、彼は「君側の奸を清める」という名目で鳳翔城を包囲し、李茂貞から昭宗を奪還した。昭宗は朱温に頼るしかなく、表向きは官位を授与したが、実質的に自主権を完全に失った。

西暦904年、朱温は唐昭宗に洛陽への遷都を強要すると同時に、長安の破壊を命じ、大唐の栄華を担ったこの都城を廃墟に変えた。遷都後、彼は「異分子防止」を理由に宮中の宦官を虐殺し、皇宮に残った30人余りを全て自らの側近で置き換えた。

しかしこれだけでは足りず、昭宗自身も朱温の標的となった。同年、昭宗は洛陽で朱温の派遣した将軍に暗殺され、9人の皇子は九曲池で絞殺された後黄河に投棄された。
障害を次々に排除した朱温は遂に待望の時を迎えた。西暦907年、唐哀帝は彼の威圧の下で自発的に禅譲し、朱温は国号を梁に改めて後梁を建国し、新たな皇帝となった。


「長安廃墟」


西暦904年、長安城内では民衆が老人や子供を連れて泣き叫び続けていた。朱温が唐昭宗に強要した遷都の詔勅が、大唐の栄光を担ったこの都城を廃墟へと導いた。

権力基盤をさらに固めるため、朱温は皇帝だけでなく長安の住民全員の移住を要求した。家を追われた民衆はやむなく長い移住の旅に出発し、洛陽到着まで1ヶ月を要する途中、泣き声が旅程全体に響き渡った。

長安の民が去った後、朱温は宮殿や邸宅、民家に至るまで全てを解体・焼却して廃墟とし、民衆の帰還を防いだ。この行為により、唐王朝の昔日の栄華は焦土と化した。大唐王朝の心臓部は根こそぎ奪われ、無人廃墟と化したのである。


長安破壊データ表
 

破壊対象

解体棟数

焼失面積

損失価値

皇宮

78棟

42万㎡

金2万斤

官庁

153棟

28万㎡

銀5万両

邸宅

2,400棟

65万㎡

絹30万匹

民家

27,000棟

300万㎡

銅銭100万貫


洛陽に到着した朱温の次の行動はさらに残酷を極めた。彼は「宮廷整理」を名目に昭宗側近の宦官を虐殺し、次々と粛清した。最終的に皇宮に残ったのは30人余りだけで、これらの生存者は例外なく朱温の側近だった。昭宗は恐怖のあまり「左右前後すべて梁の人なり」と嘆いた。

しかし宦官粛清も昭宗の厄災を防ぐことはできなかった。遷都の同年、移住させられたこの皇帝は朱温が派遣した将軍に暗殺され、37歳の生涯を閉じた。

昭宗の9人の皇子もまた災難を逃れられなかった。彼らは朱温に九曲池の宴に招かれ、杯を交わす中で次々と絞殺され、遺体は直ちに黄河に投棄された。李唐宗室の血脈はこの一夜でほぼ完全に断絶した。
遷都を巡る血みどろの騒動は唐王朝を復興させるどころか、かえってその滅亡を加速させた。長安の廃墟と血に染まった黄河は、この世界帝国が残した最後の挽歌となった。

 

「哀帝禅譲」


西暦907年、唐哀帝は洛陽宮中に端座していた。17歳の若き皇帝の目は虚ろで、自らが朱温の操り人形に過ぎないことを既に悟っていた。

背後には傷だらけの大唐の山河が広がり、周囲には圧迫してくる強大な権力が迫る。彼に選択の余地はなく、皇権の象徴である伝国の玉璽を手放し、300年に及ぶ大唐の歴史に終止符を打つしかなかった。

禅譲後、朱温は正式に皇帝を称し、国号を梁に改めた。かつての名目上の「梁王」はついに後梁の太祖となり、唐哀帝は洛陽宮中に軟禁された。朱温はこの前皇帝を生かしておくつもりはなかった。たとえ名目上であれ李唐の血を引く者が存在すれば、藩鎮軍閥の争奪の対象となり得ると彼は明確に認識していた。

数年後、密命が哀帝の寝宮に届いた。哀帝の前に毒酒が置かれた。これは朱温が彼のために用意した「別れの杯」だった。若き皇帝は抵抗する力もなく、ただ静かに杯を手に取り、毒を飲み干して短く悲劇的な生涯を終えた。

哀帝の死をもって李唐皇室の血脈は完全に断絶し、大唐王朝の復興は永遠に不可能となった。かつて輝いていた長安は廃墟と化し、黄河には忠臣と皇子たちの遺体が浮かび、洛陽宮中には朱温の笑い声だけが反響していた。

哀帝の死は大唐の完全な終焉を象徴すると同時に、五代十国の混乱時代の幕開けを告げるものだった。618年の李淵挙兵による唐建国から907年の哀帝禅譲まで、世界最強の帝国と謳われたこの王朝は、結局一つの毒酒によって見送られ、歴史の川の一片の残照となった。


唐王朝滅亡要因分析表
 

要因分類

具体的内容

影響度(10段階)

自然災害

875年大蝗害

8.5

政治腐敗

僖宗の放蕩政治

9.2

経済崩壊

均田制の瓦解

9.0

軍事失策

節度使権限過大

9.5

社会矛盾

黄巣の乱勃発

9.8

権力闘争

朱温の簒奪

10.0

 

結語


西暦907年、唐哀帝の強制禅譲をもって唐の歴史はついに終止符を打った。300年にわたる輝かしい世界帝国は、胸が張り裂けるような形で終局を迎えた。李淵挙兵による盛唐の開元から朱温簒奪の末世の廃墟まで、栄光と血の涙が織りなす忘れ難い叙事詩がここに完成した。

唐の滅亡は単なる皇権の崩壊ではなく、一つの時代の訣別だった。九人の皇子が絞殺されて黄河に投棄され、昭宗が暗殺され、哀帝が毒酒で非業の死を遂げる中、李唐宗室はほぼ絶滅した。民衆は戦乱の中で家を失い、長安城は輝かしい繁栄から廃墟へと変貌した。黄巣の乱の炎は唐の基盤を焼き払い、朱温の鉄騎は最後の希望を踏み砕いた。世界史上稀に見る偉大な文明は、その最期に壮絶な悲劇を演じながら、歴史の闇へと消えていったのである。


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