安史の乱後の唐王朝はどのようなものだったのか?
唐王朝は前代未聞の大乱を平定したが、これは唐自身の力(唐が動員した軍事力には多くの異民族出身の武将が含まれていた)で平定したわけではなく、問題をはらんでいた。長安と洛陽を奪還する過程で活躍したのは回紇(ウイグル)であった。唐は手際よく回紇に報酬を与えたが、回紇の欲望は尽きることなく、唐の弱体化は吐蕃の侵入を招いた。
唐王朝は前代未聞の大乱を平定したが、これは唐自身の力(唐が動員した軍事力には多くの異民族出身の武将が含まれていた)で平定したわけではなく、問題をはらんでいた。
長安と洛陽を奪還する過程で活躍したのは回紇(ウイグル)であった。唐は手際よく回紇に報酬を与えたが、回紇の欲望は尽きることなく、唐の弱体化は吐蕃の侵入を招いた。吐蕃は玄宗の時代から毎年唐の西辺を侵していた。天宝十載(751年)、唐は大食(アラブ)との戦いで大敗し、続いて安史の乱が発生。辺境の守備が手薄になったこの時期に吐蕃は勢力を拡大した。やがて吐蕃は唐への援軍派遣を申し出る。唐側は嘘と知りつつも要請を受け入れ、吐蕃は唐領内に侵入して各地を略奪した。
唐内部にも憂慮すべき問題があった。乱の平定は武力で叛軍を圧倒したわけではなく、特に乱の末期には離間策で叛将を弱体化させたことが主因であった。唐は叛将を節度使に任命し、その勢力範囲の管轄を認めた。現在の河北・山東から河南の一部に及ぶ旧叛軍地域は、ほぼこの種の節度使に占められていた。彼らは依然として精強な兵力を保持し、朝廷を軽視していた。「安史」という巨大軍閥が解体され、複数の軍閥に分裂した状態であり、軍閥の首脳や配下にも異民族出身者が多数存在した。主な節度使は以下の通り:
節度使名 |
治所 |
管轄地域 |
首脳 |
---|---|---|---|
盧龍 |
幽州(北京) |
北京一帯 |
李懐仙 |
魏博 |
魏州(河北省大名県) |
河北省大名県周辺 |
田承嗣 |
成徳 |
恒州(河北省正定県) |
河北省正定県周辺 |
李宝臣(張忠志) |
淄青 |
青州→鄆州 |
山東省益都県→東平県周辺 |
李懐玉(李正己) |
襄鄧 |
襄陽 |
湖北省東部・河南省一部 |
梁崇義 |
これらの中で淄青と襄鄧は当初は唐に従順な武将を任命したものの、後任の節度使は河北三鎮と連携し、婚姻関係を結んで唐の統制から離脱した。
安史の乱以前、全国に10節度使が存在したが、いずれも辺境防衛のための配置であった。乱後は内陸の要地にも節度使が新設され、兵法に通じた高官が任命された。天宝十五載(756年)の南陽節度使任命を皮切りに各地に設置が進んだが、淄青・襄鄧以外はほぼ問題を起こさなかった。
さらに唐を悩ませたのは、華北の税収激減と江南からの食糧輸送の停滞による長安の食糧不足であった。税収確保と物流整備に政府は苦心した。
財政対策 |
実施者 |
内容 |
効果 |
---|---|---|---|
塩専売制 |
第五琦 |
平原城の制度を参考に実施 |
税収増加 |
漕運改革 |
劉晏 |
運河の疏浚・専用船舶開発・巡院設置 |
長安・洛陽の物資安定供給 |
両税法 |
楊炎 |
土地税(米)・戸税(銭)・商税(銭)を春秋二季に課税 |
税制統一・財政基盤確立 |
宦官の台頭も深刻化した。玄宗時代に増加した宦官は、安史の乱を契機に政権の中枢へ進出。李輔国は天下兵馬元帥府司馬事として軍権を掌握し、程元振は内侍監として権勢を振るった。魚朝恩は神策軍を掌握し、国子監まで支配下に置こうとしたが、大暦五年(770年)に失脚した。
代宗の治世(18年間)は乱後の再建に費やされたが、回紇への年2万匹の絹支払いや吐蕃防衛の軍事費が財政を圧迫。運河の機能不全も追い打ちをかけた。
対外関係 |
相手国 |
問題内容 |
対策 |
---|---|---|---|
回紇 |
ウイグル |
老廃馬を使った不平等交易・武力恫喝 |
和親政策(公主降嫁)・物資供与 |
吐蕃 |
チベット |
安史の乱に乗じた領土侵攻・朱泚の乱での偽装支援 |
郭子儀を中心とした防衛体制構築 |
南詔 |
雲南 |
唐と吐蕃の間で揺れ動く態度 |
懐柔政策 |
徳宗は両税法実施で財政再建を図り、節度使抑圧に乗り出すが失敗。建中四年(783年)の奉天の変では朱泚に長安を占領され、陸贄の建議で発した罪己詔で人心を挽回した。貞元元年(785年)に李懐光を討伐して乱を鎮圧したが、淮西の李希烈問題は未解決のままとなった。
憲宗時代には裴度の活躍で淮西の呉元済・平盧の李師道を討伐し、一時的に節度使を抑圧した。しかし元和十五年(820年)の憲宗暗殺後、牛李党争が激化。甘露の変(835年)で宦官勢力が決定的な権力を掌握し、唐の衰退が決定的となった。
文化的には白居易の平易な詩文が日本にも伝来し、韓愈の古文復興運動が展開された。杜佑『通典』や劉知幾『史通』などの学術著作も生まれた。経済面では両税法実施に伴う土地私有化が進み、荘園経済が発達。揚州・広州などで国際商業が栄え、茶業が新たな税源として成長した。
このように中唐期(代宗~文宗)は、政治的な再建努力と文化的成熟が交錯する過渡期として特徴づけられる。しかし節度使・宦官・財政問題という三重苦を克服できず、唐王朝は緩やかな衰退へ向かっていった。