唐憲宗李純をどう評価すべきか?
ほとんど議論の余地がない中晩唐第一の皇帝といえば、その功績も能力も他の追随を許さない存在だ。李翱がまとめたように、その治世の輝かしさは歴代の中興の君主を凌駕している。「陛下が即位して15年、元年に夏州を平定し、二年に蜀の劉辟を斬り、三年に鎮海の李錡を斬り、張茂昭が易定を献上し、五年に盧従史を捕らえて沢・潞・邢・洺を獲得し、七年に田弘正が魏博六州を献上し、十二年には淮西の呉元済を斬り、十三年に王承宗が徳・棣の税を納め、十四年には淄青の李師道を斬って十二州を得た。
ほとんど議論の余地がない中晩唐第一の皇帝といえば、その功績も能力も他の追随を許さない存在だ。李翱がまとめたように、その治世の輝かしさは歴代の中興の君主を凌駕している。
「陛下が即位して15年、元年に夏州を平定し、二年に蜀の劉辟を斬り、三年に鎮海の李錡を斬り、張茂昭が易定を献上し、五年に盧従史を捕らえて沢・潞・邢・洺を獲得し、七年に田弘正が魏博六州を献上し、十二年には淮西の呉元済を斬り、十三年に王承宗が徳・棣の税を納め、十四年には淄青の李師道を斬って十二州を得た。このような神業的な決断力と軍事力は、古代の中興の君主でも及ぶ者がない」《百官行状奏》
憲宗李純は武力で夏綏の楊恵琳、西川の劉辟、鎮海の李錡、淮西の呉元済、淄青の李師道を次々に平定し、昭義の盧従史を捕縛した。さらに宣武の韓弘、義武の張茂昭、横海の程権を朝廷に出仕させ、魏博の田弘正、成徳の王承宗、盧竜の劉総にも領地献上をさせた。
憲宗が平定した主な藩鎮一覧:
元和年次 |
対象藩鎮 |
主要人物 |
結果 |
---|---|---|---|
元年 |
夏綏 |
楊恵琳 |
平定 |
二年 |
西川 |
劉辟 |
斬首 |
三年 |
鎮海 |
李錡 |
斬首 |
五年 |
昭義 |
盧従史 |
捕縛(沢・潞・邢・洺獲得) |
七年 |
魏博 |
田弘正 |
帰順 |
十二年 |
淮西 |
呉元済 |
斬首 |
十三年 |
成徳 |
王承宗 |
徳・棣献上 |
十四年 |
淄青 |
李師道 |
斬首(十二州獲得) |
穆宗の長慶年間における拙速な政策(長慶銷兵・長慶抽税)で河朔が再び反乱を起こしたものの、河朔地域の朝廷帰属傾向は完全に途絶えたわけではなかった。
憲宗の藩鎮削減については既に多くの論考があるため詳細は省くが、彼の軍事成果よりも制度改革の方がむしろ注目に値する。その実力を理解するには徳宗との比較が不可欠だ。徳宗が残した負の遺産の第一は官僚昇進システムの崩壊だった。貞元年間(785-805)、中央官僚の昇進ルートはほぼ閉塞し、科挙合格者ですら適職を得られず、下級官吏でさえ何年も待たされる状態。官職の多くが意図的に空席にされ、有能な人材が続々と藩鎮の幕府へ流出した。この状況が改善されるのは憲宗即位を待たねばならなかった。
『南部新書』に記される当時の惨状は深刻だった——門下省が数ヶ月閉鎖され、御史台にはたった1人の御史しかおらず、中書省の定員6名の中書舎人は高参1人だけ。高参が病退した後は庫部郎中の張蒙が公文書作成を一手に引き受け、彼が妹の喪に服する際は十数日間も詔書発給が停止する異常事態に陥った。権徳輿のような有能な官僚が9年間も知制誰を務め、常に宮中で詔書起草に追われる過酷な労働環境——これが徳宗後期の実態だった。
この官僚軽視が招いたのが「二王八司馬事件」である。権力を小集団に集中させる手法は有能な皇帝のもとでは機能するが、皇帝が権力を行使できなくなるとたちまち権力乱用の温床となった。順宗即位時に権力を握った王叔文集団が内廷支配を継承できたのも、病弱な皇帝を利用したためである。
次に財政政策——徳宗が導入した両税法が新たな問題を生んでいた。銭と穀物を併用するこの税制は銅銭需要を急増させたが、銅産量の不足と鋳造コストの高騰で深刻な通貨不足が発生。780年には3000-4000文だった絹1匹の価格が805年には800-900文まで暴落し、実質税率が3-4倍に跳ね上がった。富裕層の銭貯め込みや私鋳銭、銅器転用がさらに状況を悪化させた。
憲宗朝はこのデフレ対策に本格的に取り組んだ。806年の銅器製造禁止、808年の銭貯蔵禁止、817年の貯銭制限(5000貫超は2ヶ月以内に物品購入義務化)などの強硬策を実施。さらに内庫から計100万貫(当時の年間鋳造量の4倍)を市場に投入し、813年と817年には絹帛購入価格を10%引き上げる措置を取った。
元和4年(809)の度支使李元素の改革案は画期的だった。従来の「上供・留州・送使」の税収配分を見直し、藩鎮の財政基盤を弱体化させるため、支州の送使分を直接朝廷に納入させる制度を導入。これにより藩鎮は「特権的な一州」に格下げされた。しかし淮西戦役(817)など軍事費膨張で改革は頓挫し、元和14年(819)には皇甫鎛の建議で虚估廃止が強行されるなど後退もあった。
軍事面では元和6年(811)に南方諸道の軍備整理を断行。鎮海軍・采石軍・義勝軍など5軍を廃止し、年間経費を削減した。さらに元和14年、横海節度使烏重胤の建議を受け、支州の兵権を刺史に移管する画期的な措置を実施。これにより河朔藩鎮の軍事的基盤が大きく揺らいだ。
対吐蕃戦略でも憲宗の先見性は光る。817年淮西平定後、李愬を鳳翔に配置して吐蕃攻略を準備。818-819年には霊武・夏州・塩州で吐蕃軍を撃破し、一時的に原州を回復するなど積極攻勢を展開した。特に819年の塩州攻防戦では李文悦が15万の吐蕃軍を27日間防ぎ切り、史敬奉の奇襲作戦が敵を潰走させる大勝利を収めている。
晩年は道教に傾倒したことが惜しまれるが、その治世全体を見れば代宗・武宗・宣宗を凌ぎ、太宗・玄宗に比肩する力量を持っていたことは間違いない。明代の「漢称七制,唐羡三宗」という評価は、まさにこの憲宗の偉業を言い当てていると言えよう。