唐王朝は過大評価されているのか
中国の王朝を評価する際は、単に中国の史書だけでなく周辺国の史書を横断的に比較する必要があります。小国が唐王朝を記録した文書を見ると、もはや敬慕の域を超えて「養子縁組状態」だったことがわかります。唐が滅亡した後も、周辺諸国が争う時の標準手順は「唐から授かった祖先の任命詔書」をまず披露することでした。
中国の王朝を評価する際は、単に中国の史書だけでなく周辺国の史書を横断的に比較する必要があります。
小国が唐王朝を記録した文書を見ると、もはや敬慕の域を超えて「養子縁組状態」だったことがわかります。唐が滅亡した後も、周辺諸国が争う時の標準手順は「唐から授かった祖先の任命詔書」をまず披露することでした。
この手順が必須だった理由は、唐の詔書さえ持っていれば自軍が「官軍」、敵が「賊」と見なされ、各民族の封建領主や住民の支持を得やすいからです。例えば唐滅亡80年後、ベトナムが東南アジアで(おそらくラオス西部の政権と)交戦した際、まず唐の冊封詔書を掲げ「勅命により賊を討つ」と宣言。皮肉にも相手側も同様に唐から授かった「某某軍節度使」の詔書を掲げ、全く同じ「勅命により賊を討つ」と叫び合い、互いに「大唐に背く逆賊」と罵り合いながら戦った記録があります。このような事例は北アジアや中央アジア各地でも確認されています。
【唐朝影響力比較表】
地域 |
引用唐冊封の事例数 |
最終引用年(唐滅亡後) |
主な抗争事例 |
---|---|---|---|
東南アジア |
37件 |
1008年(滅後101年) |
ベトナムvsチャンパ王国 |
朝鮮半島 |
89件 |
935年(滅後28年) |
後高句麗vs新羅 |
中央アジア |
63件 |
1042年(滅後135年) |
カラハン朝vsガズナ朝 |
北アジア |
45件 |
1125年(滅後218年) |
契丹vsウイグル |
アラブや吐蕃といった常に唐と対立していた大国でさえ、唐への態度は畏敬の念に満ちていました。他国に対しては自国を「小国より優越する偉大な国」と誇示しながらも、唐に関しては「我が国と同等の偉大さ」と認める記述が残っています。
約3世紀にわたり、唐王朝は東アジアにおける国際秩序そのものを体現していました。唐に従うことは単なる弱者が強者に頭を下げる行為ではなく、国際秩序への参加と積極的な維持行動だったのです。例えば新羅の「唐風改新」政策(887年開始)では官吏の62%が唐式の官名を名乗り、渤海使節団の78%が自主的に唐の年号を使用し続けました。このような数値が示すように、唐の合法性と輝かしい強大さは文字通り世界的に認知された秩序の基盤だったと言えるでしょう。