現在の位置:トップページ > 唐の華彩繁華

安史の乱はなぜ発生したのか?

玄宗の時代、府兵制が深刻な崩壊に見舞われたことで、中央政府の軍事力が極度に弱体化していた。中央と内陸部の兵力を合計してもわずか8万人に過ぎなかった。辺境情勢の緊迫化に対応するため、玄宗は九つの節度使と一つの経略使を設置し、節度使に現地での兵士徴募を許可した結果、辺境の軍隊は49万人にまで膨れ上がった。これにより「外重内軽」の構図が形成されたのである。この新たな状況下で皇帝は節度使を抑制・牽制すべきであったが、安禄山は范陽・平盧・河東の三鎮節度使を兼任し、その任期は実に14年にも及んだ。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

玄宗の時代、府兵制が深刻な崩壊に見舞われたことで、中央政府の軍事力が極度に弱体化していた。中央と内陸部の兵力を合計してもわずか8万人に過ぎなかった。辺境情勢の緊迫化に対応するため、玄宗は九つの節度使と一つの経略使を設置し、節度使に現地での兵士徴募を許可した結果、辺境の軍隊は49万人にまで膨れ上がった。これにより「外重内軽」の構図が形成されたのである。

この新たな状況下で皇帝は節度使を抑制・牽制すべきであったが、安禄山は范陽・平盧・河東の三鎮節度使を兼任し、その任期は実に14年にも及んだ。なぜ玄宗はこれほどまでに安禄山を重用したのか?

 

地域

兵力数

管轄範囲

中央・内陸

8万

長安周辺・主要都市防衛

辺境

49万

九節度使管轄地域


開元28年(730年)、御史中丞張利貞が河北採訪使として視察に訪れた際、安禄山はあらゆる手段で媚びへつらい、多額の賄賂を使って部下まで買収した。恩義を受けた張利貞は朝廷で盛んに安禄山を賞賛し、これがきっかけで安禄山は営州都督・平盧軍使・順化州刺史に任命された。その後も使者への接待と賄賂を惜しまず、次々と朝廷高官の推薦を獲得していった。

天宝元年(742年)、平盧が節度使管区に昇格すると安禄山は平盧節度使に任命され、さらに柳城太守・両蕃・渤海・黒水四府経略使を兼任する。天宝2年正月の入朝時には玄宗の特別な寵愛を受け、「謁見無時(いつでも参内を許される)」という破格の待遇を得た。

この時安禄山がでっち上げた「害虫退治の奇跡談」は、現代人から見れば幼稚な作り話に過ぎない。しかし玄宗はこれを真に受け、翌年には裴寬に代わって范陽節度使を兼任させた。礼部尚書席建侯や宰相李林甫までが安禄山を称賛した背景には、賄賂工作が影響していたと推測される。

 

節度使名

管轄地域

主要任務

兵力推定数

范陽

北京周辺

契丹・奚対策

9.1万

平盧

遼東半島

渤海国監視

3.8万

河東

山西地方

突厥防衛

5.5万

朔方

寧夏地方

突厥対策

6.5万

河西

甘粛地方

吐蕃防衛

7.3万

隴右

青海地方

吐蕃防衛

7.5万

剣南

四川西部

吐蕃・南詔対策

3.1万

嶺南

広東・広西

南海経営

1.5万

北庭

新疆北部

西突厥対策

2.0万

安西

新疆南部

西域諸国統制

2.4万


玄宗が安禄山を重用した真の理由は、東北辺境の特殊性にあった。陳寅恪が指摘するように、河朔地域はすでに「胡化」が進み、異民族混住地域の統治には安禄山のような「武力と権謀術数を兼ね備えた胡人」が最適だった。さらに玄宗は西北節度使勢力との均衡を図るため、敢えて安禄山勢力を育成した側面がある。
 

勢力圏

主要節度使

総兵力

長安からの距離

西北軍事集団

王忠嗣

26.3万

約800km

東北軍事集団

安禄山

18.4万

約1200km


天宝11年の宴席で、安禄山と哥舒翰が激しく対立した事件は、玄宗が東西勢力の均衡を意図していたことを示唆している。玄宗は哥舒翰を河西節度使に任命し、安禄山の勢力拡大を牽制しようとした。また朔方節度使安思順を起用し、安禄山を三重に監視させる体制を構築していた。

安史の乱が長期化した根本原因は、節度使制度そのものの欠陥にあった。武官任命権の地方委譲により、安禄山は独自の利益共同体を形成していた。辺境駐屯兵の家族が現地に定住し「反乱に後顧の憂いなし」という状況が、叛乱持続を可能にしたのである。

 

制度要因

具体的内容

影響度

武官任命権の地方委譲

中下級将校の任免を節度使が掌握

★★★★☆

長任兵制の導入

職業軍人の世襲化が進み、軍事的専門家集団を形成

★★★★☆

辺境駐屯兵の家族定住

兵士の家族が防衛地域に居住することで「地縁的結束」が強化

★★★☆☆

財政権の委譲

現地調達の税収徴収権を節度使が掌握

★★★★☆

軍事作戦の独自指揮権

朝廷の許可なく小規模軍事行動を展開可能

★★★☆☆


楊国忠が安禄山の反乱を楽観視した背景には、こうした制度の本質的な欠陥への理解不足があった。安禄山個人の野心だけでなく、唐代軍事制度の矛盾が叛乱持続の真因だったのである。


トップに戻る