諸葛亮は姜維が大いなる才能を持っていると知っていたのに、なぜ亡くなるまで重用しなかったのか?
姜維と共に蜀に降った尹賞と梁虔については、記録が少なく、諸葛亮が彼らにどんな官職を与えたかは不明だ。蜀漢では自発的に降伏した者への待遇が全体的に高く、二人は最終的に執金吾と大長秋にまで昇進し、九卿と同等の地位を得ている。ただし姜維は三人の中で唯一軍務の道を進み、最初から諸葛亮に丞相府に招かれ、軍職を兼任した。諸葛亮は姜維を倉曹掾に任命し、奉義将軍を加官、当陽亭侯に封じた。
姜維と共に蜀に降った尹賞と梁虔については、記録が少なく、諸葛亮が彼らにどんな官職を与えたかは不明だ。蜀漢では自発的に降伏した者への待遇が全体的に高く、二人は最終的に執金吾と大長秋にまで昇進し、九卿と同等の地位を得ている。ただし姜維は三人の中で唯一軍務の道を進み、最初から諸葛亮に丞相府に招かれ、軍職を兼任した。
諸葛亮は姜維を倉曹掾に任命し、奉義将軍を加官、当陽亭侯に封じた。この時27歳だった。劉禅の時代、丞相府に入ることは非常に栄誉あることで、その格式は極めて高かった。楊儀や馬謖らは府入り前に二千石の太守を務め、魏延は蜀漢最高位の将軍の一人として涼州刺史を遥任しつつ丞相司馬のような府職を兼務。馬忠のように丞相府の人間が外に出れば即座に庲降都督として地方を鎮守できた。
姜維が新参者ながら将軍位と亭侯が降伏者への礼遇なら、丞相府直接採用は特別扱いだ。諸葛亮の評語や指示から察すると、姜維は重点育成&重用対象だった。
諸葛亮が張裔と蔣琬に送った書簡:「姜伯約は忠勤で思慮周到。永南(李邵)や季常(馬良)らに勝る。涼州の傑物だ」「中虎歩兵五六千を教習させるべき。姜伯約は軍事に敏で胆力あり、兵法を深く理解。漢室を思う心と人並み外れた才能あり。軍事教習後は主君に拝謁させよ」
表:建興年間の姜維昇進記録
年度 |
年齢 |
官職 |
爵位 |
主な事績 |
---|---|---|---|---|
建興6年 |
27 |
倉曹掾・奉義将軍 |
当陽亭侯 |
丞相府入り |
建興9年 |
30 |
行護軍・征南将軍 |
当陽亭侯 |
李廃除署名 |
建興12年 |
33 |
右監軍・輔漢将軍 |
平襄侯 |
北伐軍撤退指揮 |
建興9年(231)李厳廃除の署名文書では「行護軍征南将軍当陽亭侯」と記載。この年姜維30歳、蜀漢加入3年目。前年の陽渓の戦いで魏延と呉懿が爵位昇進したが姜維の名が無いことから、この戦闘には参加していないと推測される。
征南将軍は趙雲も建興元年(223)に就任した位。わずか3年で同職に就いた姜維の昇進は異例。護軍は軍職序列で第三位(軍師>監軍>護軍>典軍>参軍)。胡済は中参軍→中典軍→中監軍、王平は後典軍→前護軍→前監軍、鄧芝は中監軍→前軍師と昇進しており、序列の正当性が確認できる。
『姜維伝』では諸葛亮存命中に中監軍になったとあるが、諸葛亮死後に右監軍に降格(爵位は上昇)、魏延伝では護軍、蔣琬伝では延熙年間に中監軍と矛盾する記述があるため、実際には諸葛亮没時は護軍だった可能性が高い。
表:諸勢力の軍職比較
勢力 |
最高軍事職 |
代表者 |
蜀漢での相当職 |
---|---|---|---|
魏 |
大都督 |
司馬懿 |
大将軍 |
呉 |
上大将軍 |
陸遜 |
大将軍 |
蜀漢 |
中監軍 |
鄧芝 |
丞相司馬 |
諸葛亮最晩年、姜維は退却作戦の核心メンバーに名を連ねる。楊儀・費禕・姜維に遺命を託し、魏延が命令不服従の場合の対応まで指示。実際に撤退時に姜維が偽装戦術で司馬懿を退けるなど、軍事的才能を発揮した。
蔣琬時代には大司馬司馬に抜擢され、鎮西大将軍・涼州刺史を歴任。羌族との連携基盤を築き、後の北伐に活用。蔣琬の上奏文「涼州は要衝、羌胡の思漢の志強し。姜維を刺史に任じ河右を掌握すべし」という推薦も受ける。
費禕亡き後は衛将軍→大将軍に昇進。段谷の大敗で一時後将軍に降格するも、翌年即復帰。この人事背景には劉禅の後押しが存在し、反対派の圧力に抗して姜維を庇護し続けたことが窺える。
蜀漢中枢では魏延・鄧芝・廖化ら多くの名将が政治的限界に直面する中、姜維だけが異例の出世を続けた。これは諸葛亮が蔣琬・劉禅への「人材バトンリレー」を周到に準備した結果と言える。『出師表』に列挙された人材群を見れば、諸葛亮の育成能力への批判は成立しないだろう。