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出師の表で言及された「郭攸之、費禕、董允ら、これらは皆善良で実直な人物」は、史実通りなのか?

『出師表』のバグはまさにここにある。他の王朝なら、丞相が皇帝にこのように側近を配置すれば、結末は二通りしかなかった。一つは皇帝が腹立たしく思いながらも、一旦は我慢して自分の勢力を育成した後にこれらの者を粛清するパターン。東吳の孫休が権臣の粛清に成功した例が参考になる。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

『出師表』のバグはまさにここにある。

他の王朝なら、丞相が皇帝にこのように側近を配置すれば、結末は二通りしかなかった。

一つは皇帝が腹立たしく思いながらも、一旦は我慢して自分の勢力を育成した後にこれらの者を粛清するパターン。東吳の孫休が権臣の粛清に成功した例が参考になる。

もう一つは皇帝が器量不足で権臣に実権を奪われ、皇帝が権力掌握を企てたと気付いた権臣が最終的に皇帝を廃位・暗殺するパターン。魏の曹芳(廃位)、曹髦(暗殺)、曹奂(禅譲)が典型例だ。

しかし蜀漢では第三の展開が生じた:

諸葛亮が劉禅に推挙した人物たちを、劉禅は全て重用した。郭攸之が早世した可能性が高いのを除き、蒋琬と費禕は軍政の実権を掌握し、不適切な表現を許せば「権勢を極めた」状態だった。

だがこの二人は反乱を起こさず、自分の後継者を育てようともせず、終生蜀漢に忠誠を尽くした。一人は任期中に死去し、もう一人は刺客に暗殺された。

劉禅も彼らの死後にその一族や派閥を大規模に粛清せず、子孫たちは平穏に暮らした。蒋琬の二人の息子は高位にあり、劉禅降伏後の成都動乱で死亡。費禕の息子は劉禅の女婿となり、娘は皇太子妃となった。

諸葛亮の息子・諸葛瞻への重用ぶりはさらに顕著で、劉禅は娘を嫁がせ、30代の諸葛瞻を衛将軍・代理都護・平尚書事に任命。諸葛瞻は最終的に綿竹で戦死し、殉国している。

信じられますか?

人物一覧

 

姓名

主な役職

最期

子孫の状況

蒋琬

大将軍・録尚書事

任期中に病没

次男蒋斌:綏武将軍・漢城護軍、三男蒋顕:太子僕、共に成都動乱で死亡

費禕

大将軍・録尚書事

宴会中に魏の降将郭循に暗殺

長男費承:黄門侍郎(劉禅女婿)、娘費氏:太子璿妃

諸葛瞻

衛将軍・平尚書事

263年綿竹で鄧艾軍と交戦し戦死

長子諸葛尚:父と共に戦死、次子諸葛京:晋に仕え郿県令に


つまり蜀漢は同時代で最も調和の取れた君臣関係を築いただけでなく、後世を見渡しても比類なき存在だった。諸葛亮と劉禅は相互に成就し合った関係と言えるのだ。


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