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魏明帝曹叡:生まれながらの権謀家、その腹黒さと権謀術数

延康元年(220年)十月、魏王曹丕は三度にわたって辞退の上奏を行った後、「やむを得ず」漢の献帝からの禅譲を受け入れ、魏を建国して元号を黄初と改め、大赦を実施した。通常、新皇帝が即位すると元号を改めるだけでなく太子を立てるものだが、新王朝樹立直後にもかかわらず曹丕は皇后も太子も立てず、多くの朝臣を困惑させた。曹丕の簒奪について言えば、長子曹叡が当時17歳で聡明な容貌を持ち、祖父曹操から第三代後継者と目されていたにもかかわらず、母が甄宓であったことを理由に太子に冊封しなかった。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

延康元年(220年)十月、魏王曹丕は三度にわたって辞退の上奏を行った後、「やむを得ず」漢の献帝からの禅譲を受け入れ、魏を建国して元号を黄初と改め、大赦を実施した。通常、新皇帝が即位すると元号を改めるだけでなく太子を立てるものだが、新王朝樹立直後にもかかわらず曹丕は皇后も太子も立てず、多くの朝臣を困惑させた。

曹丕の簒奪について言えば、長子曹叡が当時17歳で聡明な容貌を持ち、祖父曹操から第三代後継者と目されていたにもかかわらず、母が甄宓であったことを理由に太子に冊封しなかった。甄宓が死ぬまでは親子関係は良好だったが、彼女が賜死されると曹叡は父を終生許さず、「陛下は母を殺したのに、臣は子を殺すに忍びない」と皮肉を込めた発言で曹丕を動揺させた。

 

重要な年表とデータ:
 

年号

出来事

関連人物

延康元年(220)

曹丕が禅譲を受けて魏を建国、黄初と改元

曹丕、漢献帝

黄初2年(221)

曹叡が斉公に封じられる、6月に甄宓賜死

曹叡、甄宓

黄初3年(222)

曹叡が平原王に封じられる、後に平原侯に降格

曹叡、郭女王

黄初7年(226)

曹丕危篤により曹叡を太子に冊立、4人の補佐大臣を指名

曹真、曹休、陳群、司馬懿

太和元年(227)

諸葛亮が北伐開始、天水三郡が離反

曹真、張郃

景初2年(238)

曹叡が病に倒れ、養子曹芳を後継に指名

曹爽、司馬懿


曹丕の死後、曹叡は不安定な政権を継承した。朝廷内では譙沛武人集団(曹真・曹休)と潁川士族(陳群)、河北士族(司馬懿)が鼎立しており、曹叡は巧みな権力操作でこれらを統制した。例えば陳群を弾劾させるために寒門出身の呉質を利用し、司馬懿には要職を与えつつその子司馬師を「浮華案」で追放する二重政策を採った。

軍事面では、諸葛亮の北伐に対処するため曹真を西方に、孫権対策で曹休を南方に配置し、司馬懿には孟達の反乱鎮圧と遼東征討を命じた。特に遼東遠征では60歳の司馬懿に無理な行軍を強制し、失敗時の責任追及を想定したが、司馬懿は見事に公孫淵を討ち果たした。

内政では直臣を重用しつつも、毛皇后を些細な理由で賜死するなど冷酷な面もあった。礼法面では父曹丕を「魏高祖文皇帝」と追尊しながらも葬儀に参列せず、母甄氏を別廟で祭祀するなど複雑な心情を示した。

晩年には後継者問題に直面し、8歳の養子曹芳を司馬懿と曹爽の共同輔政に託したが、これが高平陵の変へとつながる。曹叡の治世は権謀術数に長けた統治で曹魏を安定させたが、士族勢力の台頭と自身の早世により改革は頓挫し、結果的に司馬氏の台頭を許す形となった。

 

曹叡の統治手法の特徴:
 

  • 派閥均衡:四大臣を相互牽制させる

  • 間接統制:側近を使い他者を弾劾させる

  • 軍政分離:宗族を前線、士族を後方に配置

  • 情報操作:奏文の非公開による権威維持

  • 二代目対策:重臣の子弟を「浮華案」で排除


財政面での業績:
 

  • 治水事業:成国渠整備で関中灌漑拡大

  • 貨幣改革:五銖錢を復活させ経済安定

  • 法律整備:魏律18篇を制定

  • 文化事業:洛陽に国立大学を再建


これらの政策にもかかわらず、大規模な宮殿建設(洛陽昭陽殿・凌霄閣)と後宮拡充(数千人規模)が財政を圧迫し、結果的に民衆の負担増大を招いた。晩年の曹叡は「今の世は、まさに秦の末世のようだ」と自嘲するほど国情悪化を自覚していたが、士族勢力の力に抗うことはできなかった。


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