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三国時代後期の人材枯渇:深刻化の要因と真の能力評価

「三国時代後期の人材枯渇」は、実は歴史的錯覚に過ぎない。真実を述べれば、三国後期の人材の質は決して前期に劣っていない。ただ『三国志演義』の影響力が大きすぎる上に、羅貫中が三国後期を描く際に費やした筆墨が少なかったため、人々は無意識のうちに三国後期の人材レベルが低いと感じてしまうのである。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

「三国時代後期の人材枯渇」は、実は歴史的錯覚に過ぎない。

真実を述べれば、三国後期の人材の質は決して前期に劣っていない。ただ『三国志演義』の影響力が大きすぎる上に、羅貫中が三国後期を描く際に費やした筆墨が少なかったため、人々は無意識のうちに三国後期の人材レベルが低いと感じてしまうのである。

羊祜(ようこ)、陸抗(りくこう)、杜預(とよ)、王濬(おうしゅん)、鄧艾(とうがい)、この5人はいずれも三国後期に生まれ活躍した傑物である。彼らは全て武廟に祀られ、戦いの手腕は互角であった。しかし大多数の歴史愛好家にとっては、鄧艾の名前を耳にしたことがある程度で、他の四人についてはほとんど知られていない。

『三国志演義』全120回の中で、諸葛亮の死去は104回目で描かれる。つまり諸葛亮の死から西晋滅亡まで、羅貫中はわずか16回分の記述しか割いていないのである。

さらに羊祜、陸抗、杜預という三大人物の事跡は、たった1回分の内容に押し込まれている。

実際には、彼ら三人の物語だけを詳細に描写すれば、軽く30~40回分の分量になるはずだ。

ここで、諸葛亮の死から始まる「後三国時代」に何が起こり、どのような猛者たちが登場したかを簡単に整理してみよう。

234年、五度目の北伐途上で諸葛亮が病没。その後主劉禅は諸葛亮が推挙した蒋琬(しょうえん)を重用し、蒋琬は10年間蜀漢の政務を司り、民安んずることを本分として忠実に職務を遂行した。10年後、蒋琬が病に倒れると、後任として費禕(ひい)に政権を譲った。

費禕もまた10年間蜀漢の政務を掌握。職務に忠実で質素清廉なだけでなく、自ら戦場でも活躍し、漢中で曹爽を大破させて以降、曹爽が二度と蜀漢に攻め込む意欲を失わせた。しかし10年後、魏の降将に暗殺されるという最期を遂げた。

蒋琬と費禕、そして早世した董允(とういん)は、いずれも最高レベルの治国の能臣であった。彼らの統治下で、蜀漢は国力こそ弱体ながらも、諸葛亮死後20年間大きな動乱もなく、着実に国力を回復させていった。

もし統一王朝の下であれば、この三人はいずれも頂点の宰相となったであろう。

武将面では、蜀漢後期で最も著名なのは姜維(きょうい)である。武廟入りは果たせなかったものの、九度にわたる中原遠征は精彩を放ち、特に死の間際に仕掛けた計略は、千年の時を超えて人々の敬服を集めている。

また多くの蜀漢第二・第三世代たちも最後まで投降せずに戦死。能力は劣るものの、個人の品格においては非の打ち所がないと後世に伝えられている。

しかし後三国時代を横断的に比較すると、このような蜀漢が三国中最も人材面で劣っていた可能性が高い。

これに対し、呉と魏の人材レベルは実際にはさらに高かった!

魏では諸葛亮の死から40年間、司馬懿の遼東征伐→曹叡の死→司馬懿と曹爽の権力闘争→高平陵の変→淮南三叛→曹髦の死→司馬炎と司馬攸の世子争い→鄧艾の蜀漢滅亡→鍾会の乱→司馬炎の禅譲受諾→西晋の呉征伐準備という流れで歴史が展開する。

(このうち後半部分は既に西晋の歴史に属する)

この中で高平陵の変以降の歴史は一般に認知度が低く、成済(せいさい)が曹髦を殺害した事件が最も知られる程度である。しかし実際には司馬炎の物語を掘り下げれば、同等にドラマチックな展開が存在する。

この時期の魏(晋)からは、杜預・王濬・羊祜・鄧艾という4人の武廟級将軍が登場。特に杜預は文廟と武廟の両方に祀られる異例の存在である。

三国後期の戦争、特に西晋の呉征伐戦は参加兵力数が三国時代随一を誇る。赤壁の戦いや官渡の戦いの知名度は高いが、両戦役の総兵力はそれぞれ十数万程度であった。

 

【主要戦役参加兵力比較】
 

戦役名

時期

魏軍兵力

敵軍兵力

総兵力

官渡の戦い

200年

2万

11万

13万

赤壁の戦い

208年

20万

5万

25万

西晋呉征伐戦

279 - 280年

20万

20万

40万


これだけの大兵力を指揮する将帥への要求は、当然ながら幾何級数的に高まる。

呉側の後期主軸は「二宮の変」と孫家宗室の内紛。この過程で陸遜・陸抗父子を筆頭に、幾多の豪族から人材が輩出し、歴史を主導した。陸氏父子は武廟において父子同時入りを果たす稀有な存在である。
後三国時代の人材問題を考える際、次のような問いを投げかけてみよう:

 

  • 「杜預と呂布が各々5千の兵を率いて戦えば、どちらの勝算が高いか?」

  • 「竹林の七賢が提唱した玄学思想にはどのような差異があるか?」

  • 「司馬炎は呉征伐前に具体的にどのような準備を整えたか?」


これらの問題を深堀りすることで、真の後三国時代を理解できるようになる。

歴史的事実として、後三国時代は決して人材が枯渇した時代ではない。『三国志演義』の影響力が絶大で、羅貫中がこの時期を軽く扱ったこと、後世の文学作品でも描写が少ないことが、人々に「この時代には人材がいない」という誤った印象を与えてしまったのである。


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