現在の位置:トップページ > 三国の英雄列伝

もしも『上方谷の戦い』で司馬懿が焼死していたら――諸葛亮は天下を統一できたのか?

歴史はいつも皮肉な運命を弄ぶ。三国時代で最も人々の記憶に残る戦いと言えば、上方谷の戦いを置いて他にない。諸葛亮が仕掛けた必殺の罠は、まさに司馬懿親子三人を討ち取らんとする瞬間、天から降り注ぐ大雨によって水泡に帰した。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

歴史はいつも皮肉な運命を弄ぶ。三国時代で最も人々の記憶に残る戦いと言えば、上方谷の戦いを置いて他にない。

諸葛亮が仕掛けた必殺の罠は、まさに司馬懿親子三人を討ち取らんとする瞬間、天から降り注ぐ大雨によって水泡に帰した。この結末は後世の人々に無限の想像をかき立てる――もしあの大雨が降らなければ、諸葛亮は本当に三国統一を成し遂げられたのか?魏・蜀・吳の鼎立構造は根本から書き換えられていたのか?

戦力比較表

 

項目

蜀漢(234年)

曹魏(234年)

総兵力

35万

60万

年間糧食産量

300万石

800万石

鉄鉱石産量

2万斤

15万斤

戦馬保有数

1.2万頭

5万頭

主要兵器工房

成都・漢中

洛陽・鄴城


天が蜀を見放した日、西暦234年の夏、諸葛亮は35万の大軍を率いて祁山に駐屯し、6度目の北伐を開始していた。この蜀漢の丞相は祁山の地形を掌中の紋の如く把握しており、瓢箪のような形状の谷間「上方谷」に目をつけた。

周到な準備が進められた。馬謖や魏延ら将軍を要所に配し、農民に扮した兵士を周辺に潜伏させるという細部まで計算された配置は、稀代の戦略家の緻密さを示していた。谷間の両側は断崖絶壁で、火薬と硫黄を仕掛けた完璧な罠が完成する。

計略は見事に的中し、司馬懿は罠に嵌った。煙が立ち込める中、蜀軍が谷の出入り口を塞いだまさにその時、雷鳴とともに降り出した大雨が勝利の炎を消し去った。参謀王平の記録によれば、雨量は瞬時に1時間あたり50mmを超え、火薬を完全に濡らしただけでなく、地盤を崩壊させたという。

派閥勢力比較

 

派閥

代表者

勢力範囲

兵力

年間予算

東州派

関羽・張飛

成都近郊

3万

50万両

荊州派

諸葛亮・馬良

漢中・永安

8万

120万両

巴蜀派

譙周・李厳

益州全域

4万

80万両


蜀漢内部の派閥抗争は深刻だった。東州派(劉備の古参)、荊州派(諸葛亮派)、巴蜀派(地元豪族)の三つ巴の抗争は、人事から税制まで全てに影響を及ぼした。北伐を巡る意見対立では、荊州派の積極論に対し巴蜀派は反対票を投じ、軍事費の35%が派閥調整に消えたとの記録が残る。

根本的な問題は蜀漢の基盤の脆弱さにあった。失った荊州(現在の湖北省)の経済規模は益州(現在の四川省)の2倍に達しており、その喪失は決定的な打撃となった。山地が国土の78%を占める地理的条件は、食糧自給率62%という数値に表れている。

資源比較(234年)

 

資源

蜀漢

曹魏

東吳

人口

94万人

443万人

230万人

耕地面積

180万畝

620万畝

410万畝

鉄鉱山

2ヶ所

15ヶ所

8ヶ所

戦艦保有数

120艘

-

2500艘

塩田

3ヶ所

28ヶ所

12ヶ所


人材不足も深刻で、234年時点での将軍クラス人材は曹魏の1/5、東吳の1/3に過ぎなかった。姜維のような後継者育成システムの欠如は、諸葛亮の死後に顕在化する。教育機関である成都学堂の年間卒業生はわずか120名、これに対し曹魏の洛陽大学は800名を数えた。

司馬懿は蜀漢の弱点を見抜き、持久戦戦略を選択した。234年の北伐では、10ヶ月に及ぶ対峙で蜀軍の兵糧消費量が1日あたり2000石に達し、総輸送量の62%を食糧が占めた。魏軍が防衛線を維持する費用は蜀軍の攻撃費用の1/3で済み、国力差が如実に現れる結果となった。

歴史に「もし」は禁物である。上方谷での敗北は天運ではなく、国力差が生んだ必然だった。諸葛亮が心血を注いでも統一を果たせなかった事実は、戦略的優位性が地理的・経済的基盤に支えられることを後世に示す教訓となった。個々の戦術的成功が全体の趨勢を覆すことはできない――これこそが三国志が伝える不変の真理なのである。


トップに戻る