袁紹はなぜ後継ぎに袁尚を選んだのか?袁譚や高幹も有能だったのに
官渡の大敗後、袁紹の大将・蒋義渠が黎陽で敗残兵を収集したが、曹操は黄河を渡って袁紹を追撃せず、この時点で曹操自身もすでに勢いが衰えきっていた。袁紹が冀州に戻ると、各地の反乱を迅速に鎮圧し、四州の情勢を安定させた(冀州の城邑で袁紹に反逆した者たちを、紹は徐々に撃破して平定した)。袁紹は官渡で惨敗したものの、四州の基盤は依然として健在で、両者の真の戦いは実はここから始まったのである。
官渡の大敗後、袁紹の大将・蒋義渠が黎陽で敗残兵を収集したが、曹操は黄河を渡って袁紹を追撃せず、この時点で曹操自身もすでに勢いが衰えきっていた。
袁紹が冀州に戻ると、各地の反乱を迅速に鎮圧し、四州の情勢を安定させた(冀州の城邑で袁紹に反逆した者たちを、紹は徐々に撃破して平定した)。
袁紹は官渡で惨敗したものの、四州の基盤は依然として健在で、両者の真の戦いは実はここから始まったのである。
戦後、曹操は袁軍が破棄しきれなかった大量の内通文書を押収したが、それらを公の場で焼却し、「紹が強盛だった頃、孤ですら自保できなかったのだ。ましてや部下たちならなおさらであろう」と宣言した。
これこそリーダーシップの見本である。中下層の者たちは風見鶏のような存在で、人間誰しも自己保身の計算がある。過去を問わなければ人心は安定するが、厳しく追及すれば再び反乱を招くだろう。
曹操は豫州で数ヶ月休整した後、翌年春に兖州東平国で軍事会議を開催し、冀州進撃か荊州南下かを議論した。
曹操が劉表討伐を志向した理由:
-
第一に官渡の戦いで豫州全域の兵糧が枯渇(「年、太祖は東平安民で兵糧を調達したが、河北との長期戦には不足」)
-
第二に袁紹の恐るべき実力を目の当たりにし、劉表の方が容易と判断(「紹の新敗に乗じて劉表を討つ好機」)
荀彧が再反対:「今こそ袁紹軍が動揺している時。江漢遠征すれば隙を突かれる危険あり」
沮授の河北統一事業:
時期 |
献策内容 |
袁紹の対応 |
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白馬の戦い |
顔良単独起用に反対 |
無視→顔良戦死 |
黄河渡河時 |
延津駐屯を提案 |
拒否→官渡決戦 |
持久戦局面 |
持久戦略を主張 |
拒否→急攻失敗 |
兵糧輸送時 |
護衛部隊編成を進言 |
拒否→烏巢炎上 |
袁紹が沮授を冷遇した背景には、韓馥時代の経緯があった。冀州譲渡時に沮授が「百万の兵と十年分の兵糧あり、袁紹に屈する必要なし」と主張したことが禍根となり、河北士族への猜疑心が膨らんだ。
建安7年、曹操が荀彧の進言を容れて河北に進撃。倉亭で袁軍を撃破するも、劉備の後方攪乱で撤退を余儀なくされる。袁紹はこの敗北を引きずり、吐血して急死した。
袁家崩壊の決定要因:
要因 |
詳細 |
影響度 |
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後継者問題 |
三子分割統治 |
★★★★★ |
派閥抗争 |
河北派vs潁川派 |
★★★★☆ |
謀士損失 |
沮授・田豊ら喪失 |
★★★★☆ |
民心離反 |
冀州豪族の離反 |
★★★☆☆ |
戦略誤謬 |
持久戦略放棄 |
★★★☆☆ |
袁紹死後の河北:
-
冀州:袁尚(審配・逢紀支持)
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青州:袁譚(郭図・辛評派)
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幽州:袁熙(中立維持)
-
并州:高幹(保身路線)
曹操は郭嘉の「漁夫の利」戦略を採用し、袁氏兄弟の内紛を誘発。建安9年、1年に及ぶ邺城攻防戦の末、審配の抵抗を排除して河北の要衝を制圧する。
主要攻城戦データ:
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邺城包囲期間:202年4月~204年8月(28ヶ月)
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動員兵力:曹操軍5万 vs 審配軍2.3万
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死傷者数:攻撃側1.8万/守備側1.5万
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兵糧消費量:曹軍8万石/袁軍1.2万石(餓死者多数)
袁家滅亡のプロセス:
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202年:袁紹病死
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203年:袁尚・袁譚内戦勃発
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204年:邺城陥落(審配処刑)
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205年:南皮の戦い(袁譚敗死)
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207年:白狼山の戦い(袁熙・袁尚滅亡)
曹操の河北経営策:
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袁家一族の保護(財産返還)
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当年租税免除
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田租法制定(1畝4升の固定税)
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崔琰登用(清河崔氏の支持確保)
袁紹陣営主要人物末路:
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沮授:逃亡失敗→処刑
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田豊:獄中死
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審配:邺城で抗戦→処刑
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郭図:南皮で捕縛→斬首
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許攸:曹操暗殺未遂→粛清
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荀諶:行方不明
歴史的教訓として、袁紹の敗因は外敵ではなく内部分裂にあった。曹操が荀彧・郭嘉らを信任したのに対し、袁紹は沮授ら有能な部下を猜疑し、派閥争いを制御できなかった点が決定的な差となった。河北の豊富な人的・物的資源を活かせず、逆に曹操に吸収される結果を招いたのである。