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司馬懿がクーデターを起こした後、曹爽が徹底的に抵抗した場合、逆転の可能性はあったのか?

正元六年(249年)正月、魏の権臣曹爽が天子曹芳を伴って高平陵参拝に出かけた。その日のうちに、洛陽に残っていた司馬懿が隙を突いてクーデターを起こし、都の制圧に成功する。この急変に際し、大司農桓範は曹爽に秘策を献上した——天子を奉じて許昌に急行し、武庫を占拠し、四方の兵馬と食糧を動員して司馬懿と決戦すべし、と。

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正元六年(249年)正月、魏の権臣曹爽が天子曹芳を伴って高平陵参拝に出かけた。その日のうちに、洛陽に残っていた司馬懿が隙を突いてクーデターを起こし、都の制圧に成功する。この急変に際し、大司農桓範は曹爽に秘策を献上した——天子を奉じて許昌に急行し、武庫を占拠し、四方の兵馬と食糧を動員して司馬懿と決戦すべし、と。しかし曹爽は迷い続けて決断の機を逃し、ついに降伏を選んだことが、後の司馬氏による魏簒奪の伏線となった。もしこの時曹爽が桓範の策を採用し抵抗を続けていたら、権力闘争の結末は変わっていただろうか?

曹魏建国当初、曹丕は後漢の外戚干政の二の舞を避けるため、后妃の政治関与を禁じる詔を発した。この禁令は太后の権力を制限するように見えて、実は後の権力闘争の種を蒔く結果となった。

各勢力軍事配置比較表

戦区

兵力(推定)

指揮官

支持勢力

戦略的重要性

雍涼

50,000

夏侯玄

曹爽

蜀国防衛最前線

淮南

40,000

文欽/毋丘倹

曹爽

呉国対処要衝

荊州

30,000

司馬懿系将軍

司馬懿

長江防衛線

北方

20,000

孫礼

司馬懿

遊牧民族対策


明帝曹叡は在位中、曹爽と司馬懿の二人に共同輔政を委ね、幼帝を託した。この決定は二人の牽制を期待したものだったが、実際には新たな対立構造を生むことになる。曹爽は宗室出身の若き実力者として禁軍を掌握し、大将軍として権勢を拡大。一方、司馬懿は諸葛亮北伐を防いだ老練の将軍として軍内に絶大な影響力を保持していた。

洛陽城内軍事力比較(正元六年正月時点)

 

部隊

兵力

指揮官

政変後の動向

大将軍営

8,000

高柔

司馬懿陣営に帰属

中領軍営

5,000

王観

司馬懿陣営に帰属

武庫守備兵

2,000

司馬師

即時掌握

曹爽私兵

1,500

曹羲

城外に孤立


曹叡の崩御後、8歳の曹芳が即位すると朝廷の実権は曹爽派に傾く。司馬懿は老病を装って警戒を解かせ、豚の肝を食べて衰弱を偽るなど巧みな演技で時機を待った。洛陽朝廷は曹爽派(夏侯玄・李勝ら)と司馬懿派(郭太后ら)に分裂し、水面下で激しい駆け引きが続いていた。

正元六年正月、司馬懿は待望の好機を捉える。曹爽が例年のように幼帝を伴って高平陵参拝に出た隙に、洛陽防衛の要である武庫と禁軍を掌握。郭太后の詔旨を盾に正当性を主張し、瞬く間に都を制圧した。

許昌急行ルート比較

 

ルート

距離

所要日数

リスク要因

メリット

洛水南岸ルート

300里

2日

司馬懿軍の追撃

最短距離

山地迂回ルート

450里

3日半

地形の険しさ

奇襲回避可能

夜間強行軍

280里

1日半

兵士の疲労蓄積

時間節約


この時、大司農桓範が官印を持って城外脱出に成功し曹爽の下へ駆けつける。「今すぐ許昌へ向かい武庫を確保せよ」との進言は、理論上は有効な打開策だった。許昌には兵器庫と食糧備蓄があり、各地の将軍へ天子の名で勅令を発布できる利点がある。しかし曹爽は五更(午前4時)まで決断を先送りし、司馬懿が洛水浮橋に伏兵を配置する時間を与えてしまった。

両陣営決戦兵力推計

 

戦力要素

曹爽陣営(許昌移転後)

司馬懿陣営

直接動員兵力

30,000(推定)

45,000

食糧備蓄

2年分

6ヶ月分

兵器装備率

70%

90%

外部支援期待

淮南・雍涼

荊州・北方


結局曹爽は降伏を選択し、司馬懿は約束を破って曹爽一族を誅殺。これにより曹魏朝廷は完全に司馬氏の掌中に落ちた。その後、王凌の反乱など抵抗は続くものの、司馬師・司馬昭への権力継承が確立され、ついに晋王朝樹立へとつながっていく。この政変は単なる権力交代ではなく、中国古代史の転換点となった事件なのである。


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