孫乾、簡雍、糜竺の三人をどう評価するか?
簡雍は劉備古参三人組の中で最も古い経歴を持つ人物だ。彼は劉備と同郷で、少年時代からの知り合いで、関羽や張飛よりも早くから交流があった正真正銘の幼なじみで、李淵にとっての裴寂のような存在と言える。ただし簡雍の戦闘力は関張に比べて圧倒的に低く、存在感が薄くなりがちだが、劉備との絆は関張に劣らないどころか、むしろ性格的に最も馬が合っていた可能性が高い。『三国志』によれば、簡雍は普段から礼儀作法を気にせず、劉備の傍らでも足を伸ばしてリラックスした姿勢を取り、諸葛亮以外の人と話す時は専用の座席を占領して寝転がりなが
簡雍は劉備古参三人組の中で最も古い経歴を持つ人物だ。彼は劉備と同郷で、少年時代からの知り合いで、関羽や張飛よりも早くから交流があった正真正銘の幼なじみで、李淵にとっての裴寂のような存在と言える。ただし簡雍の戦闘力は関張に比べて圧倒的に低く、存在感が薄くなりがちだが、劉備との絆は関張に劣らないどころか、むしろ性格的に最も馬が合っていた可能性が高い。
『三国志』によれば、簡雍は普段から礼儀作法を気にせず、劉備の傍らでも足を伸ばしてリラックスした姿勢を取り、諸葛亮以外の人と話す時は専用の座席を占領して寝転がりながら会話していたという。最も有名なエピソードは劉備に下ネタを披露した件で、劉備はこれを聞いて「大笑い」したと記録されている。史書では簡雍が特にこの手の下ネタを好んでいたことが強調されている。
劉備は「喜怒を顔に表さない」と評されるが、性格的には簡雍と通じる部分があった。例えば学問論争で口論する許慈と胡潜を真似たパフォーマンスを宴会で披露させて楽しむなど、諸葛亮や劉巴のような真面目な人なら眉をひそめる場面でも、簡雍や法正は拍手喝采していたに違いない。諸葛亮が加入する前の劉備陣営に「礼儀」や「規律」があったかどうかは疑わしい。
晩年まで下ネタを言い合える仲間がいたという点で、劉備はある意味幸せな軍閥トップだったと言える。簡雍がコネ入社組であったとしても、幽州から益州まで逃亡生活を耐え抜いた「関係者」なら、誰も文句は言わなかっただろう。
孫乾は簡雍とは全くタイプが異なる。簡雍が劉備と出会わなければ無名のままだったのに対し、孫乾は正真正銘の名士で、曹操陣営に残っても成功できた人物だ。鄭玄に推薦されて仕官した経歴を持ち、北海孫氏の出身。孔融から「廊廟の才」と評された孫邵や、党錮の禍で鄭玄と共に迫害された孫嵩ら名士を輩出した家系である。劉表が袁譚に送った書簡で「北海孫公佑」の名が敬意を込めて言及されていることからも、その名声の高さが窺える。
蜀入り後すぐに死去したため行政能力を発揮できず「座談客」の印象が強いが、若くして健康であれば伊籍のように蜀科制定に関わっていたかもしれない。陳群が劉備に仕えた場合の待遇を想像するなら、まさにこのレベルと言える。
麋竺はまた異なるタイプで、経済力と勢力を兼ね備えた人物だった。『三国志』に「僮客万人、資産巨億」と記される大富豪で、劉備が困窮した際には二千人の食客と軍資金を即座に提供できる財力を持ち、単独で勢力を築けるレベルの実力者だった。漢末の富豪の中でも断トツの存在で、魯肅ですら「田舎の成金」に見えるほどの格差があった。その伝説的富は両晋時代まで語り継がれ、『拾遺記』では「黄金一億斤、駿馬一万頭」という途方もない支援を劉備に行ったとされる。
陶謙が徐州別駕に任命し、曹操も太守職を提示するなど、誰もが糜家の支持を欲した。臧霸と組んで徐州の独立勢力になる道もあったが、不思議なことに劉備に忠誠を尽くし続けた。劉備陣営内での序列は諸葛亮や孫乾・簡雍を上回り、劉備にとって一生忘れられない恩人となった。しかし弟が蜀に大損害を与えたため、「我が手で得て我が手で失う」という皮肉な運命を辿ることになる。
蜀漢資料の最大の損失は、このように個性豊かな人々と彼らの物語が失われた点にある。地図上を逃げ回りながらも結束を保ったチームそのものが、既に驚異的な存在だったと言える。
(追加テーブル:主要人物比較)
人物 |
出身地 |
劉備との関係 |
史書記載 |
最終的な立場 |
---|---|---|---|---|
簡雍 |
涿郡 |
幼なじみ |
「優遊風議、性簡傲跌宕」 |
昭徳将軍 |
孫乾 |
北海 |
鄭玄推薦 |
「雍容風議、見礼払時」 |
秉忠将軍 |
麋竺 |
東海 |
資金提供者 |
「車服豪華」 |
安漢将軍 |
劉琰 |
魯国 |
同姓縁故 |
「車服飲食、号為侈靡」 |
車騎将軍(後に処刑) |
関羽 |
解県 |
義兄弟 |
「万人の敵」 |
前将軍(失地) |
張飛 |
涿郡 |
義兄弟 |
「威猛雄壮」 |
車騎将軍(暗殺) |
ちなみに四天王五人組の伝統に則れば、劉琰も古参組に加わるべき存在だった。年齢・経歴・待遇の面では三人組と同等だったが、自業自得で『蜀書』巻八から巻十に追いやられてしまった。食堂の開店時間が迫っているので詳細は割愛するが、三国志ゲームで劉備の初期メンバーにもう一人内政人材を増やせるチャンスを失ったのは残念な話だ…。