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趙雲と馬超、一体どちらの方が強いのか?

乱世が英雄を生む。三国時代も歴史上名高い乱世であり、この時期に現れた英雄豪傑は数知れない。文学作品の影響もあって、人々はつい蜀漢により多くの注目を寄せがちだ。蜀漢と言えば「五虎大将軍」を抜きには語れない。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

乱世が英雄を生む。三国時代も歴史上名高い乱世であり、この時期に現れた英雄豪傑は数知れない。文学作品の影響もあって、人々はつい蜀漢により多くの注目を寄せがちだ。

蜀漢と言えば「五虎大将軍」を抜きには語れない。演義では既に序列が決められているものの、後世になってもこの順位には異論が絶えず、特に趙雲と馬超のどちらが優れているかは永遠の議論の種となっている。

 

趙雲の能力


まず趙雲の能力について。劉備が趙雲を一目見て認めたことは史実にも記されている。二人は共に公孫瓚を頼った道を選び、同地で出会った。当時は軍閥が乱立する時代。趙雲が万里の道を隔てて公孫瓚に身を寄せた行為に、劉備は深く感銘を受けた。

注目すべきは趙雲が冀州出身である点だ。袁紹を頼るのが自然な選択肢だったはずだが、彼はあえて公孫瓚を選んだ。「仁徳ある人物に従いたい」という信念の表れであり、これが後に劉備を選ぶ伏線となる。この発言は公孫瓚を感動させただけでなく、一人の人物に強い印象を残した。それが劉備だった。

先見の明に長けた劉備は、自らが公孫瓚の配下にありながら既に趙雲を欲していた。趙雲が去る際には公孫瓚以上に名残惜しみ、彼の誓約を得て初めて満足したという。趙雲もこの期待を裏切らず、自ら兵を率いて劉備に従い、数奇な運命を辿る主君に終生忠誠を尽くした。

劉備が趙雲を重用した理由は人格のみならず、その武勇にもあった。乱世において武力は最重要視される。関羽や張飛の武勇は言うまでもないが、特に傲慢な関羽でさえ趙雲の実力を認め、常に友好的な態度を崩さなかった。主君の身を守る任務を任されるだけの力量を、趙雲は確かに備えていた。

演義では趙雲の武勇が空前絶後と描かれる。多少の誇張はあるものの、曹操最精鋭の虎豹騎に包囲されながら甘夫人と劉禅を守り切った事実は特筆に値する。激戦の後も母子に傷一つなかったという記録がそれを物語っている。

 

趙雲主な戦績

内容

長坂坡の戦い

単騎で曹操軍を突破、劉禅を救出

漢水の戦い

空城の計で曹軍を撃退

北伐戦役

70歳で先鋒を務め敵将を討取

 

馬超の能力


一方の馬超もまた三国随一の猛将だったが、曹操からの評価は全く異なる。曹操が最も憎んだ諸侯の筆頭に馬超の名が挙がる。勢力を拡大しつつあった曹操に敢えて刃向かった点が、その理由だ。最盛期の曹操軍に大打撃を与えた馬超の武勇は、まさに「呂布再臨」と称された。
 

馬超主な戦績

内容

潼関の戦い

曹操を追い詰め鬚を切るまでに迫る

葭萌関の戦い

張飛と一騎打ちで互角

渭水の戦い

許褚と激闘を繰り広げる

しかし蜀漢帰順後の馬超は、演義でも正史でも目立った活躍が少ない。その背景には複雑な事情があった。馬超の経歴を見れば、劉備陣営が彼を重用しなかった理由が見えてくる。
 

趙雲と馬超の比較


重用度を比較する際には、蜀漢への参加時期と徳行が鍵となる。趙雲が劉備と初期から苦楽を共にしたのに対し、馬超は後発組だった。さらに劉備や諸葛亮が重視した「徳」の面で、馬超には致命的な弱点があった。「不忠不孝」「不仁不義」との評が定着し、曹操が呂布を警戒したように、劉備もまた馬超を完全には信用しなかった。
 

比較項目

趙雲

馬超

参加時期

創業期

中期

官位

鎮軍将軍

驃騎将軍

実権

近衛軍指揮権

名誉職的立場

劉備からの信頼度

極めて高く私兵を預けられる

形式的厚遇に留まる

後世評価

「完璧武将」と称賛

「流星の如き猛将」と評される


趙雲が「三国最高の人格者」と称されるのに対し、馬超は父を死に追いやった行為や裏切り行為がたびたび指摘される。劉備が趙雲を私兵隊長兼家政係に起用した背景には、この人格的信頼があった。孫夫人監視という微妙な任務を任せられたことも、趙雲の清廉さを物語っている。

ただし趙雲の高潔さが仇となる場面もあった。益州占領時に民の惨状を憂いて劉備を諫めたように、時として道徳観が柔軟な対応を阻んだ。漢中太守に魏延が選ばれたのも、趙雲の慎重すぎる性格が影響している。

結局のところ、趙雲は「守り」に徹した万能型武将として、馬超は「攻め」の特化型猛将として、それぞれ異なる輝きを放ったと言える。流星のように瞬く間に消えた馬超と、長きにわたり忠誠を貫いた趙雲。両者の違いは、乱世における武将の在り方を考える上で示唆に富んでいる。


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