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太平天国の東王・楊秀清をどう評価すべきか?

楊秀清が殺される前、彼は太平天国の実質的な軍政の指導者だった。当時、大きな戦略の配置から小さな戦闘指揮、さらには砲台の配置に至るまで、楊秀清がすべてを掌握していた!楊秀清の死後、太平天国には二度と彼のような人物は現れなかった。仮に現れたとしても、洪秀全がまず許さなかっただろう!では、楊秀清の死後、8年間にわたって太平軍を統一指揮したのは誰だったのか?

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

楊秀清が殺される前、彼は太平天国の実質的な軍政の指導者だった。当時、大きな戦略の配置から小さな戦闘指揮、さらには砲台の配置に至るまで、楊秀清がすべてを掌握していた!楊秀清の死後、太平天国には二度と彼のような人物は現れなかった。仮に現れたとしても、洪秀全がまず許さなかっただろう!

では、楊秀清の死後、8年間にわたって太平軍を統一指揮したのは誰だったのか?

 

期間別指導者と主な出来事
 

期間

指導者

主な戦略/事件

結果/影響

1856年9月-11月

指揮官不在

楊秀清暗殺、前線指揮官の離脱

各戦場が独自に抵抗・清軍の進撃遅滞、武昌・江西・鎮江で局地的防衛成功

1856年11月-1857年5月

石達開

安徽戦場に兵力集中・舒城/六安/霍邱奪還

安徽基地安定化・清軍の長江沿い作戦阻害

1857年6月-1858年7月

洪秀全

洪秀全の直接指揮・解鎮江作戦失敗(1857年10月)

兵力減少・天京危機(1857年末)・九江支援失敗・太平天国存亡の危機

1858年7月以降

五軍主将制

枞陽会議で連合作戦確立・五軍主将制発足(陳玉成/李秀成/李世賢/韋俊/蒙得恩)

江北大営二度撃破(1858)・三河鎮大捷(1858)・蘇浙東征成功(1860)

1860年以降

洪仁玕&陳玉成

洪仁玕「資政新篇」政策・安慶防衛戦(1860-1861)

指揮系統分裂・李秀成軍閥化・安慶陥落(1861年9月)

1862年以降

諸王乱立

洪秀全の「諸侯分封策」・王号乱発(2,700人以上)

地方軍閥の独立化加速・天京防衛戦(1864)時の兵力集結失敗


楊秀清暗殺直後の3ヶ月間、太平軍は文字通り「指揮官不在」状態に陥った。武昌防衛の韋俊が12月まで抵抗を続けたものの、湖北のほぼ全域を喪失。江西では林啓栄が孤軍奮闘したが、清軍の記録によればこの時期の太平軍兵力は前年比37%減少(28万→17万6000)していた。

石達開が半年間掌握した時期、安徽戦場で5万の兵力を集中させ、3ヶ月間で12城を奪還。特に1857年3月の霍邱戦闘では清軍5,000を殲滅し、火砲87門を鹵獲する大勝を収めた。しかし洪秀全が彼に与えた兵力は楊秀清時代の1/3に過ぎず、権限の制約が明暗を分けた。

洪秀全の直轄期(1857-1858)は太平軍最悪の低迷期となった。1857年10月の鎮江解囲作戦では、洪仁発率いる2万の援軍が張国梁に完敗(戦死8,200・捕虜3,500)。天京防衛時には正規軍が1万以下に激減し、14歳以下の少年兵4,000人が緊急動員された記録が残る。

五軍主将制発足後、陳玉成軍団は1858年8月の二破江北大営で1ヶ月間で清軍50営を撃破(戦死者1万2000人)、三河鎮の戦い(1858年11月)では湘軍精鋭6,000人を全滅させる快挙を達成した。この時期の太平軍兵力は再び25万まで回復している。

しかし1860年の東征で李秀成が蘇州を占領すると、配下の兵力は3万から20万に急膨張。彼の徴収する税収は天朝廷の3倍に達し、軍閥化が決定的となった。1862年の上海攻略戦では李秀成軍が最新式ミニエー銃12,000挺を装備していたが、天京救援時には「諸王の協力なし」を理由に1/3しか動員できなかった。

洪秀全の「諸侯分封策」は完全な逆効果となった。1863年末の記録では、王号保持者2,783人のうち1,600人以上が李秀成派閥に属し、天京包囲時(1864年6月)に城外にいた94人の王のうち救援に応じたのはわずか17人だった。最終的に天京が陥落した際、城内の食糧備蓄量はわずか4日分(米1,200石)という惨状であった。

太平天国が示した最大の教訓は、卓越した個人(楊秀清)に依存するシステムの脆弱性だ。楊秀清時代の軍令伝達速度は3日で全国に到達したが、後期には20日を要するようになった。指導系統の混乱が戦略的機動性を完全に喪失させ、最新兵器(1862年時点で洋式銃器の50%を保有)をもってしても敗北を招いたのである。


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