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清王朝に「道台」という非常に特殊な官職がありますが、これはいったい何をする役職だったのでしょうか?

古代の風変わりな官職は数多く存在したが、その多くは具体的な職務範囲を指摘できる。しかし清朝の「道台」という官職を論じると、歴史学者たちは長年研究を重ねても依然としてその具体的な職務内容を説明できずに頭を悩ませている。各地の道台は管轄範囲と管理内容がそれぞれ異なり、表面上は統一された官職名称ながら実際には各々が独自の領域を管理していた。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

古代の風変わりな官職は数多く存在したが、その多くは具体的な職務範囲を指摘できる。しかし清朝の「道台」という官職を論じると、歴史学者たちは長年研究を重ねても依然としてその具体的な職務内容を説明できずに頭を悩ませている。

各地の道台は管轄範囲と管理内容がそれぞれ異なり、表面上は統一された官職名称ながら実際には各々が独自の領域を管理していた。なぜ道台という官職はこれほど特異な存在となったのか?

 

道台の変遷


「道台」という現代風に響く官職名は実は秦代に既に出現していた。当時の「道」は主に少数民族居住区に設置された特殊な行政区画を指し、管理と懐柔の二重機能を兼ね備えていた。

漢代には「道」の性質が安定し、県と並ぶ基層行政単位となった。北朝時代には軍事色を帯び、頻繁に戦略上の要所として登場する。

隋唐時代に「道」の概念が成熟し、当初の軍事専管から民政を含む行政単位へと発展。特に唐代には中央と地方を繋ぐ枢要として最盛期を迎えた。

天宝年間(742 - 756年)、唐帝国全土は15の道に区分され、当時の行政区画として最大規模を誇った。時代が下り明代になると、「道」と「道台」が新たな関係を築くこととなる。

明の太祖は前朝の制度を改革し、布政使司・都指揮使司・按察使司の三司を設置。道員は布政使司の補佐官として位置付けられた。清は明制を継承しつつ、道台の可能性を見出した。

乾隆帝は道台を道員と改称し、品級を整え定員を設定。塩道・糧道・駅伝道・水利道などが全国に設置され、一見すると省級行政の仲介役に見えるが、朝廷の財政・民生関連部門では皇帝の権力掌握の重要な手段として機能した。

 

道台の多様性


清朝の官僚体系において道台は特殊な存在であった。江南では糧道台が税糧を計量し、南嶽山麓では塩道台が銀札を管理し、茶馬古道では茶道台が茶磚を鑑定するなど、多様な現場で活動していた。
 

道台種類

管轄内容

主要業務地域

従事者数(1850年)

塩道

塩専売管理

沿海地域

23名

糧道

税糧徴収

長江流域

45名

駅伝道

交通・通信

主要幹線沿い

67名

水利道

河川管理

黄河・淮河流域

38名


品級もまちまちで、正四品の道台が皇帝の寵臣となる例もあり、地方官僚はその対応に苦慮した。雍正帝が地方陋規を改革した背景には、このような複雑な権力構造があった。

有能な道台も存在し、民衆のために汚職官僚と戦う者もいた。上海の洋槍隊を組織した呉煦のような特異な経歴を持つ道台も現れた。

 

道台制度の混乱


清中期以降、道台の数が急増するとその権威は失墜した。官職が売買の対象となり、特にアヘン戦争後は外国勢力との癒着が深刻化した。
 

年代

道台総数

平均任期

汚職事件発生率

乾隆期

152

5.2年

12%

道光期

287

3.1年

41%

同治期

365

2.3年

68%


外国商人と結託して密貿易に手を染める道台が続出し、かつての「青天大人」の面影は失われた。改革の声が高まる中、道台制度は清朝衰退の象徴となっていった。
 

結語


道台という官職は封建王朝の興亡を映す鏡であった。初期の明確な権限分担から末期の混乱まで、その変遷は清朝そのものの運命を体現していた。最後の道台が退任した時、この制度の終焉は一つの時代の幕引きを告げるものであった。


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