嘉慶帝が和珅の家宅を没収したが、乾隆帝のお気に入りだった紀曉嵐のその末路はどうなった?
紀曉嵐に関しては、ネット上で広く伝えられている好色癖や乾隆帝との口論などのエピソードが存在します。テレビドラマでは常に「鉄歯銅牙」のイメージで描かれ、誰にも論破できないキャラクターとして登場します。しかし史実における紀曉嵐は、同じく才気煥発ながらも晩年には政治的話題を避ける傾向がありました。
紀曉嵐に関しては、ネット上で広く伝えられている好色癖や乾隆帝との口論などのエピソードが存在します。テレビドラマでは常に「鉄歯銅牙」のイメージで描かれ、誰にも論破できないキャラクターとして登場します。しかし史実における紀曉嵐は、同じく才気煥発ながらも晩年には政治的話題を避ける傾向がありました。また和珅との関係も、ドラマで描かれるような対立関係ではなく、むしろ無関係に近く、付かず離れずの距離を保っていました。
天真爛漫な青年から円熟した官僚へ――紀曉嵐の人生にはどんな変遷があったのでしょうか。彼の生涯を辿ってみましょう。
表1:紀曉嵐の科挙履歴
西暦 |
年齢 |
試験名 |
成績 |
---|---|---|---|
1740 |
17歳 |
院試 |
秀才合格 |
1747 |
24歳 |
郷試 |
河北省第一位(解元) |
1754 |
31歳 |
会試 |
進士二甲第四位 |
1724年、河北省で生まれた紀曉嵐は、挙人から進士となった父・紀栄淑の影響で4歳から学問を始めました。順調に科挙を突破し、24歳で郷試全省一位という輝かしい成績を収めます。乾隆帝の師である劉統勲を主考官に師事したことで、宮廷との繋がりが深まりました。
人生の転機は25歳の会試落第と母の死。3年間の喪明け後、31歳で進士となって官僚社会に足を踏み入れます。乾隆帝への追従を徹底し、現存する16巻の詩集のうち8巻半が皇帝への頌徳詩に充てられています。
表2:官職昇進推移
西暦 |
年齢 |
官職名 |
品級 |
---|---|---|---|
1754 |
31歳 |
庶吉士 |
無品級 |
1757 |
34歳 |
詹事府左庶子 |
正五品 |
1760 |
36歳 |
山西省郷試主考官 |
特命職 |
1764 |
40歳 |
翰林院侍読学士 |
従四品 |
1773 |
50歳 |
『四庫全書』総纂修 |
正七品 |
1793 |
69歳 |
礼部尚書 |
従一品 |
山西郷試主考官時代には全答案を自ら添削する徹底ぶりで名声を獲得。しかし41歳の時、父の急死をきっかけに人生が暗転します。姻戚関係にあった盧見曾の汚職事件に連座し、新疆への左遷を経験。現地では6,000人以上の漁民の戸籍整備や鉱山労働者の保護に尽力しますが、47歳で帰京した際は正七品の翰林院編修に降格していました。
表3:四庫全書編纂データ
項目 |
数値 |
---|---|
編纂期間 |
1773 - 1787年 |
参加学者数 |
360名 |
収録書籍数 |
3,461種 |
総ページ数 |
約800万頁 |
分類 |
経史子集 |
文字獄発生件数 |
48件 |
焚書数 |
2,862種 |
改竄書籍数 |
1,763種 |
『四庫全書』編纂では古代文献の保存に貢献する一方、乾隆帝の思想統制に協力せざるを得ませんでした。文字獄による書籍焚毀への関与は晩年の心の負担となり、「何の業績も残せなかった」と自省する発言を残しています。
表4:晩年の主な事績
西暦 |
年齢 |
事柄 |
影響範囲 |
---|---|---|---|
1803 |
80歳 |
女性の名誉保護上奏 |
全国適用 |
1805 |
82歳 |
逝去 |
皇帝直筆の碑文 |
- |
- |
自撰の挽聯 |
後世への遺言 |
80歳で女性の名誉保護制度改革を提言し、封建的倫理観に一石を投じました。嘉慶帝から「文達」の諡号を賜りましたが、自ら「宦海に浮沈すること鷗鳥の如く、書叢に生死すること蠹魚の似たり」と詠んだ挽聯には、官僚としての無力感と学者としての葛藤がにじんでいます。子孫に恵まれ名声を確立しながらも、晩年は憂愁に満ちた日々を送ったと伝えられています。