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流刑地としての寧古塔はどれほど恐ろしいのか?

宋明時代に罪人が流刑に処される際、自殺するケースはほとんど見られませんでした。しかし、なぜ清朝になると「寧古塔への流刑」が言い渡されると、多くの囚犯が極度の恐怖を示し、自尽を選ぶようになったのでしょうか。流刑という刑罰は古代において死刑に次ぐ重罪として位置付けられていました。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

宋明時代に罪人が流刑に処される際、自殺するケースはほとんど見られませんでした。しかし、なぜ清朝になると「寧古塔への流刑」が言い渡されると、多くの囚犯が極度の恐怖を示し、自尽を選ぶようになったのでしょうか。

流刑という刑罰は古代において死刑に次ぐ重罪として位置付けられていました。秦漢時代から存在したこの刑罰は、南北朝時代に本格的に普及しました。三国時代の戦乱で人口が激減したため、死罪に値する者でも貴重な労働力として辺境防衛に活用されるようになったのです。隋唐時代には人口回復で一時衰退しましたが、北宋期に再び多用されました。例えば『水滸伝』の武松は陽谷県から孟州(黄河を渡った程度)へ、林冲は滄州(北京から南へ約200km)へ流された程度でした。蘇軾の場合、杭州から海南島までの流刑でも生存率は比較的高く、家族が連座するケースも稀でした。

 

流刑関連データ比較表
 

項目

宋明時代

清朝

平均流刑距離

300-800km(開封〜海南島)

1,500km(北京〜寧古塔)

移動期間

2-6ヶ月

3-12ヶ月

冬季気温

-5℃〜5℃(中原地域)

-20℃〜-35℃(寧古塔)

生存率

約65%

約1.5%

女性流刑者死亡率

18%

93%

再召還可能性

30%

0.7%


清朝の転機は呉三桂の協力で山海关を突破したことに始まります。満州族の故地である寧古塔(現在の牡丹江市寧安県)は、現代では車で30分の距離ですが、当時は北京から3,000里(約1,500km)の辺境でした。流刑者が直面した現実は過酷で、春先に出発しても5月の融雪期に湿地帯で足止めされ、10月から翌年4月まで続く氷点下20度の極寒に晒されました。記録によると、1653-1911年の間に流刑された1,527,000人中、生存者は23,400人(1.53%)に過ぎませんでした。

特に秋季出発のケースでは、到着前に67%が凍死し、到着後も将兵の虐待で年間12%が死亡しました。女性流刑者(全体の17%)の93%が移動中に死亡し、生存者の大半は呉兆騫のような特例(友人の納蘭性徳が白銀2,000両を賄賂)に依存していました。寧古塔到着後の労働は、1日16時間の森林伐採(1人あたり年間600本の木材加工)や、-30℃での軍事施設建設など、過酷を極めました。

このような実態から、清朝の流刑が「死より残酷」と恐れられた理由がわかります。わずか1.5%の生存率、到着後の平均余命3.2年という数字が、人々の恐怖を物語っているのです。


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