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和碩親王より高位の称号は存在するのか?清朝爵位制度の真実に迫る

和碩親王は清代宗室の最高爵位であり、その上は皇帝のみであった。しかし称号の面から見ると、和碩親王が最高位とは言えない。清初には四人の人物がより高位の称号を授かり、通常の和碩親王を超える地位を確立していた。以下に時系列で詳細を述べる。最初はダイシャン(代善)である。

華夏の歴史鏡鑑華夏の歴史鏡鑑

和碩親王は清代宗室の最高爵位であり、その上は皇帝のみであった。しかし称号の面から見ると、和碩親王が最高位とは言えない。清初には四人の人物がより高位の称号を授かり、通常の和碩親王を超える地位を確立していた。以下に時系列で詳細を述べる。
 

ダイシャン(代善)


最初はダイシャン(代善)である。天命年間から天聡年間初期にかけ、大ベイレ(大貝勒)ダイシャンの地位は明らかに最高であった。ヌルハチ(努爾哈赤)がチュイイン(褚英)の太子位を廃した後、ダイシャンを後継者としたが、長続きせず、過失により太子位を剥奪されベイレ(貝勒)に降格された。ホンタイジ(皇太極)が即位して九等宗室爵位を制定すると、ダイシャン、ドルゴン(多爾袞)、ジハラン(済爾哈朗)、ドド(多鐸)、ホーゲ(豪格)、ユエト(岳托)らを和碩親王に封じた。特に礼親王ダイシャンは「兄王」の称号を付与され「兄和碩礼親王」と呼ばれ、他は単に和碩親王であった。ホンタイジがダイシャンを厚遇した理由は、彼の経歴と威望が最も高かったこと、ヌルハチ死後の後継者擁立に貢献したことが挙げられる。しかし崇徳年間にホンタイジの圧迫を受け、実権を失った状態が続いた。清が中原に入った後もドルゴンはダイシャンを政務から遠ざけ、「伯王」への昇格は認められなかった。それでも「兄王」の称号は通常の和碩親王より高位であり、清代唯一の特例であった。


ドルゴン(多爾袞)


次にドルゴン(多爾袞)はダイシャンより29歳年少で、天命・天聡期には幼少のため活躍の機会がなかった。崇徳朝から軍事能力と政治手腕を発揮し、ホンタイジ急逝後の皇位継承争いでは6歳の順治帝を擁立し、自らは摂政王となった。1644年9月に順治帝が北京で即位すると「叔父摂政王」に封じられ、順治5年(1648年)には「皇父摂政王」に昇格。儀仗や護衛が皇帝並みとなり、その権力は清代親王の中でも頂点に達した。崇徳期の「和碩睿親王」から順治期の「叔父摂政王」「皇父摂政王」を経て、死後は「義皇帝」と追号された。


ジハラン(済爾哈朗)


第三のジハラン(済爾哈朗)は崇徳元年(1636年)に和碩鄭親王に封じられ、順治帝即位後はドルゴンと並ぶ摂政王となった。順治4年(1647年)にドルゴンにより降格されたが、ドルゴン死後は宗室の指導者として復権。順治9年(1652年)には「叔和碩鄭親王」に昇進し、一日で三人の息子を郡王に封じる異例の待遇を受けた。しかし順治帝は議政王や議政大臣を新設し、ジハランの実権を巧妙に制限した。


ドド(多鐸)


最後にドド(多鐸)は崇徳元年に和碩豫親王に封じられ、順治2年(1645年)の南明弘光政権討伐後に「和碩徳豫親王」に昇格。順治4年(1647年)には「輔政叔徳豫親王」となり、ジハランを上回る宗室第二位の実力者となった。しかし順治6年(1649年)に急逝し、ドルゴン失脚後に連座して名誉を剥奪された。最終的に名誉を保持したのはジハランだけだった。


人物称号及相关信息表
 

人物

主な称号変遷

期間

特記事項

ダイシャン

兄和碩礼親王 → 和碩礼親王

1636-1655

九等爵制定時の最高位者・皇帝擁立の功

ドルゴン

和碩睿親王 → 叔父摂政王 → 皇父摂政王 → 義皇帝(追贈)

1636-1650

摂政時代の権力は皇帝並み・死後8日で弾劾

ジハラン

和碩鄭親王 → 信義輔佐叔王 → 和碩鄭親王 → 叔和碩鄭親王

1636-1655

三朝にわたる重臣・一族四人同時封王

ドド

和碩豫親王 → 和碩徳豫親王 → 輔政叔徳豫親王

1636-1649

ドルゴンの実弟・南明征服の功・急逝による栄誉喪失


称号比较表
 

称号比較

序列

対象者

特権内容

兄王

1

ダイシャン

称号に「兄」を冠する・儀礼的優遇

叔父摂政王

2

ドルゴン

皇帝代理権限・儀仗数20種(皇帝は24種)

皇父摂政王

1

ドルゴン

皇帝同等の護衛(300人)・詔書発布権

輔政叔王

3

ジハラン

摂政補佐権・俸給2倍支給

和碩徳豫親王

2

ドド

戦功特別加称・俸給1.5倍


このように清初の宗室爵位制度は、功績や血縁関係に基づき複雑な称号体系を形成し、皇帝権力との絶妙なバランスの中で運用されていた。特にドルゴンの「皇父摂政王」時代には、摂政王府が独自の官僚機構を有し、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)に相当する六曹を設置するなど、一時的に「影の朝廷」が形成されていた。これらの称号変遷は、清代政治史における権力闘争の縮図を示す好例と言える。


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