皇太极への評価は過大ではないか?
むしろ逆で、ホンタイジ(皇太极)に対する評価は常に低すぎる。実際のところ清の十二皇帝の中でホンタイジの知名度は極めて平凡だ。民間の認知度では前のヌルハチ(努爾哈赤)に及ばず、後の順治帝(福臨)、康熙帝(玄燁)、雍正帝(胤禛)、乾隆帝(弘暦)にも劣る。
むしろ逆で、ホンタイジ(皇太极)に対する評価は常に低すぎる。
実際のところ清の十二皇帝の中でホンタイジの知名度は極めて平凡だ。民間の認知度では前のヌルハチ(努爾哈赤)に及ばず、後の順治帝(福臨)、康熙帝(玄燁)、雍正帝(胤禛)、乾隆帝(弘暦)にも劣る。嘉慶帝(顒琰)、道光帝(旻寧)、咸豊帝(奕詝)、同治帝(載淳)といった「透明皇帝」よりはましだが、最下位の光緒帝(載湉)と溥儀ですらホンタイジより有名だ。
これが民間の認知度。清朝公式の廟号を見ても、ヌルハチが太祖、6歳で入関した順治帝が世祖、康熙帝は前代未聞の「聖祖」という大仰な称号を得ているのに対し、ホンタイジはただの太宗に留まっている。
皇帝名 |
廟号 |
在位期間 |
主要功績 |
民間知名度ランキング |
---|---|---|---|---|
ヌルハチ |
太祖 |
1616-1626 |
後金の建国 |
1位 |
ホンタイジ |
太宗 |
1626-1643 |
制度整備、蒙古併合 |
5位 |
順治帝 |
世祖 |
1643-1661 |
清の中国入り |
3位 |
康熙帝 |
聖祖 |
1661-1722 |
康煕盛世 |
2位 |
乾隆帝 |
高宗 |
1735-1796 |
文化発展、領土拡大 |
4位 |
実を言えば、清が部族制から封建政権に変貌したのはホンタイジのおかげだ。後金が辺境の一勢力から天下を席巻する存在になったのも彼の手腕による。
ヌルハチが残したのは財政崩壊・民衆疲弊、満漢矛盾の激化、宗族勢力の跋扈という「負の遺産」だった。ホンタイジは文教を興し科挙を開設、漢人八旗と蒙古八旗を増設して漢人軍閥や儒学者を懐柔し、支配基盤を拡大した。
内政では皇帝権力を集中させ、封建国家の制度体系を確立。ヌルハチの部族的習俗を一掃し、農桑を奨励して戸籍整備と生産回復を推進した。対外的には蒙古を併合して明朝を圧迫、紅夷大砲を開発し松錦の戦いで関外支配を完成させた。
つまりホンタイジがいなければ、満州族は歴史の表舞台に立つことすらできなかった。ただ彼は入関前夜に急死し、ドルゴン(多尔袞)に手柄を奪われ、6歳の順治帝が「史上唯一の幼帝入主」の栄誉を得た。さらに「関外二帝」では後継者の立場ゆえ、開祖であるヌルハチに比べて地味な存在に映る。
だからこそホンタイジの歴史的評価も民間の人気も不当に低く、過大評価されているのは父と息子の方だと言える。ちなみに彼の懐柔術はドルゴンの比ではない。もし甲申の年(1644年)にホンタイジ自らが入関していたら、明末清初の歴史は全く違う展開になっていただろう。